おうばく通信
おうばく心理室コラム
2015年11月 5日 (木)
【おうばく心理室コラム/2015年11月】体育会系うつ病!?
近年、いろんな「うつ病」が提唱されています。従来型うつ病、仮面うつ病、産後うつ病、昇進うつ病、新型うつ病、回避型うつ病、非定型うつ病などなど……。正式な診断名でないものも含めると、両手の指ではとても数えきれないほどです。
こういった分類はあくまでも、治療者側にとって共通項が感じられる一群を類型化した結果に過ぎません。実際にはひとりひとりが異なるバックボーン(資質や性格、環境など)を有しているわけで、そういう意味では個々人がそれぞれ「オリジナルのうつ病」と考えるほうが妥当だとも言えますし、その治療法も結局はその人に合わせたオーダーメイドになっていくのが通例です。
その一方、診断や治療について学界や現場で論じ、よりよい治療法を模索していくとなると、ある程度は診断名として類型化を行わなければなりません。
統計的データを示すためには診断名による分類が必要となるのはもちろん、事例検討であってもそれは同様です。「山田花子さんのうつ病には○○の治療法が有効でしたが、彼女の診断名は唯一無比の『山田花子型うつ病』なので、他の患者さんには全く応用できません」と言われてしまうと、周囲はその情報をまったく活用できません。個別のケースから得られた知見を広く役立てていくためには、「山田花子さんは△△型うつ病と診断され、○○の治療法が有効だったので、同じ診断名である山本太郎さんにも効果があると考えられます」という具合に何らかの類型化が必要なのです。
のっけから話がそれてしまったので閑話休題として。本稿で述べたかったのは、このようにさまざまな「うつ病」が林立している中、「体育会系うつ病」と命名したくなる一群も存在するように感じているということです。
ただ、辟易するくらい多くの「うつ病」がすでに提唱されている中、筆者のような弱輩者が新たな類型をさらに提言するのは蛇足の極みだろうとの思いと、一方で稚拙な類型にもささやかな意義がある可能性は捨てきれないのでは? との言い訳から、上述のような一般論を並べてしまったという次第でして。
そのようなわけで、体育会系うつ病。どのようなものかと言うと、「学生時代は体育会系の部活でハードにがんばれていた人物が、社会に出てしばらく経つ中でうつ状態に陥っていくケース」となるでしょうか。
体育会系の部活をバリバリやっていたような人は、体力も根性も礼儀もしっかりしていて、うつ病とは無縁のような印象をお持ちかもしれません。しかし臨床現場で多くの患者さんの事例を見聞きしていると、どうやらそうとは限らず、環境によっては体育会系出身者のほうが不適応に陥りやすいケースがあると感じるようになったのです。
体育会系と聞いてイメージするのは、
・全国大会への出場など求められる水準が高い
・日々の練習がハードで筋骨隆々の身体
・もともとの身体能力が高い
・上下関係が厳しく先輩や顧問の指示には絶対服従
・礼儀作法も叩き込まれて明朗快活な態度
・期待に応えられないと厳しい指導や叱責を受ける
・優れた成績を出せばメディアにも取り上げられ喝采を浴びる
…といったところでしょうか。
私自身はどちらかというとこういう世界を避けてきたほうで、そもそも超のつく運動音痴で体育的資質に全く恵まれていなかったこともあるのですが、高校時代は登山系の部活でテントを担いで冬山に入ったりしていた時期もあり、「体育会系」に似た雰囲気を多少は経験したように思っています。
部活をしていた高校生当時に感じたのは、とにかく自分勝手な行動は厳禁で、先輩や顧問の命令に従うことが何より大切、それらを守らなければ鉄拳が飛んでくるという集団律でした。登山系の部活だったので勝敗を競うわけではないものの、指示を守らずに行動すると命の危険があったことは事実です(ルートを外れて雪庇を踏めば滑落しますし、落石を起こせば後続の部員に直撃するかもしれません)。差し迫った危険がある場合、言葉で諭していては間に合わず、身体で覚えさせる必要もあったのでしょう。
こういった状況は窮屈でつらい一方、言われる通りにしていれば大丈夫という気楽さもありました。勝手に写真を撮ったりおやつを食べたりする自由すら許されないし、体力的にも精神的にも忍耐力が求められるけれども、とにかく指示を守ってついていけば山頂に着けるのです。筆者の場合、登山よりも料理を作るほうが好きだったので、テントを張ってからの夕食作りと、その際の味見と称した盗み食いのほうが楽しみだったりしていましたが(先輩の目があると殴られるのが怖いからルールを守るものの、先輩の目がなければ勝手なことをやり始めるというのも「体育会系」の問題点かもしれません)。
当時を振り返ってみると、体力や忍耐力がある程度養われたことと、集団ルールを遵守する意識が培われたことは、その後の社会生活においてプラスに作用しているように思います。しかし反面、自分で考えることなく命じられるまま行動していればいいやという受動性が身に付いたことはマイナスに作用しているような気がします。
当時からこのような自覚は多少あったので、大学進学後は登山に関しては部活に入らず、自分で企画して友達を誘って登るスタイルを取るようになりました。それでも、仕切り屋的な人がいると安楽な追従の道を選んでしまう傾向は、今なおどこかに残っている気がします。
……筆者の個人的な経験を書き連ねてしまいましたが、このような「体育会系」が社会(職場)に出たときにどうなるかを主観的にまとめると次のようになりますでしょうか(体育会系出身の皆さんがこうだと言うわけではありませんし、私自身がそうだというわけでもないのでご了承ください)。
・上司や先方への礼儀は非常に正しく第一印象も良い
・指示されることさえ忠実にやっていれば褒められる新入社員時代は適応がいい
・体力も忍耐力もあるので仕事が増えても無理をしてがんばれてしまう
・その結果として与えられる業務量がどんどん増えやすい
・身体能力の高さからスポーツでは努力すれば結果が出たが仕事では必ずしもそうはいかない
・弱音を吐いてはいけないという意識が強く仕事を自分だけで抱え込みやすい
・努力しても外的報酬(評価や成果など)が伴わないと燃えつきやすい
・昇進などと共に能動性や創造性を求められるようになると困惑しやすい
つまり、「従順で辛抱強いけれども能動性は乏しい。限界を超えて抱え込みやすく、そこに評価や成果が伴わないと燃えつきやすい」というイメージです。学生時代はこれでうまく乗り切ることができたものの、いろいろと世知辛い社会~努力したから評価されるとは限らないし結果が出るとも限らない、負荷の量もコントロールしてもらえない、やりがいを自分で見いださなければいけない、次第に独創性を求められるようになる等々~に直面したとき、それまでの方略では通用しなくなって不適応を呈してしまうというケースは一定数存在するのではないでしょうか(このあたりの図式は拙コラム「どうして私が京大に!? 医学部に!?(2015年4月)」と共通しています)。
繰り返しますが、体育会系出身の皆さんがこうだと言いたいわけではありません。同僚や知人を含め、すぐれた能動性や独創性、判断力、リーダーシップをもって社会適応している体育会系出身者を何人も知っていますし、いざというときの踏ん張る力は彼らに到底及ばないなァと感じさせられることもしばしばです。
ただ、指示されたトレーニングへの服従だけで学生時代を通過してきた人たちがいるとするなら、彼らが不適応に陥ることには了解可能な相応の因果があるように思えるのです。筆者も大きなことは言えませんが、学生時代は知識を会得する時期であると同時に、「何のために生きているのか」「自分の存在意義は何なのか」といった自問に苦しみながら模索を重ね、それらは与えられるものではなく自分で見つけ出していくしかないことを悟る大切な時期ではないかと。
本稿で定義したような「体育会系」の方々がおられましたら、社会に出てからでも決して遅くはありません。忍耐と追従だけではなく、自らやりがいを模索していく姿勢を大切にしていけば、きっと変化はついてくるものと思います。
それでも自分ひとりでは前に進めないと感じたときには、カウンセリングでもこういった人生の悩みも承っていますので、よければご来談いただければ幸いです(と、最後はいつもながら取ってつけたような宣伝にて失礼いたします。笑)。
文責:臨床心理士・名倉