おうばく通信
おうばく心理室コラム
2015年4月 5日 (日)
【おうばく心理室コラム/2015年4月】どうして私が京大に!? 医学部に!?
知り合いの京大関係者が、昨今の現役京大生と接する中で次のような指摘をしておられて、思わず「なるほど!」と膝を打ちました(わたくし古いタイプの人間なもので、感心すれば膝を打ち、可笑しければ腹を抱え、後悔すれば臍を嚙みます)。
なんでも、「どうして私が京大に!?」といった触れ込みの大手予備校が近年いろいろと登場していて、その主旨は「当予備校は京大に目標を定めた緻密なカリキュラムを提供することで受験者の合格率を高めています!」「したがって自分がまさか受かるとは思っていなかった人でも京大に合格するケースが続出しています!」ということらしいのですが。 こういった受験勉強を経て京大に入ってくる学生さんは、その後の学生生活がうまくいかず、不適応に陥ってしまう場合が多い印象を受けるというのです。
そのひとつの理由として、京都大学が自由と自主性を重んじる校風であることが挙げられていました。つまり、「自分は○○の研究を極めたい!」といった目的意識を持って入学してきた学生さんにとっては、京大はハイレベルな研鑽を積める優れた大学として機能する一方、目的意識を持たないまま予備校のカリキュラムに乗って「偏差値が高い大学だからなんとなく」入学してきた学生さんにとっては、京大はその先の進路や目標を決めてくれない不親切な大学になってしまうのだと。
その結果、皮肉なことに別の意味で「どうして私が京大に!?」状態となり、大学生活に意義を見いだせず不適応に陥ってしまうのだといいます。自分で物事を考えることなく予備校の指示通り勉強してきたタイプの学生さんはむしろ、偏差値は下がるけれども学生の面倒をよく見てくれる他の大学に進学して、その中で周囲のサポートを受けながら自分の進路を決めていったほうが、本人にとっても大学側にとっても幸せだったのではないか? というわけです。
同様の問題は京大だけでなく、難関と言われる他大学や医学部においてもおそらく見られることでしょう。
現在の受験システムでは、勉強がよくできる受験生はなかば自動的に難関大学へと進んでしまいます。一昔前までは「勉強がよくできる受験生=高い志を持った受験生」という図式が成り立っていたから問題はそれほど起こらなかったものの、受験ビジネスがこれだけ発展してきた現在では「勉強がよくできる受験生=カリキュラムに従順な受験生」という側面が強くなり、高校まではそれで問題のなかった学生さんが、大学という自由な枠組みの中で不適応を起こしやすくなっているのかもしれません。
難関大学に合格するためには、一定以上の資質が必要とされることに変わりはないでしょうけれど、勉強する能力と能動的に意思決定する能力は別のものです。だからこそ、「間違って京大に入ってしまった」「間違って医学部に入ってしまった」人たちが存在するのでしょう。
こういった問題の背景要因は、受験生側、予備校側、大学側のそれぞれにあると思います。受験生側の要因としては偏差値の高い大学に入ることを最優先してその先どうするかという思慮が不足している点があるでしょうし、予備校側の要因としては受験勉強スキルの提供のみに偏重しすぎている点があるでしょうし、大学側の要因としてはこういった趨勢がありながらも学生に自主性を求め続けている点があるでしょう。
ここで大切なのは、各々がそれぞれのズレを自覚して、それらを小さくしていく意識をいかに持っていくかだと思いますし、本当の改善を目指すなら現在の教育システム、ひいては社会システム全体に目を向けなければいけないかもしれません。
ただ個人的には、最も大きな要因はやはり受験生側にあって、そこには「手段の目的化」の問題も存在していると考えています。つまり、本来は別の目的(○○先生のもとで最先端の研究をしたい! とか、素敵な恋人を作って楽しい学生生活を送りたい! とか)のための「手段」であるはずの大学入学が、いつの間にかそれ自体が「目的」にすり替わっているのです。いい大学に入ることが最終目標になってしまえば、そこから先の人生を歩むモチベーションがなくなってしまうのは自明です。
・「いい大学に入ることが目的」ではなく「その大学で何をしたいか」
・「有名企業に就職することが目的」ではなく「その企業で何をしたいか」
・「たくさんお金を稼ぐことが目的」ではなく「そのお金で何をしたいか」
・「条件のいい相手と結婚することが目的」ではなく「その相手とどんな生活を過ごしたいか」
・「安心できる老後を確保することが目的」ではなく「その老後をどう過ごしたいか」
・「病気を治すことが目的」ではなく「病気が治ったらどう過ごしたいか」
こう考えていくと、入学も就職も結婚も貯金も治療も何かのための通過点であり、もっと大事な「何か」のための手段に過ぎません。それらの先にある生活を思い描くこと、そしてその先にある時間そのものを大切にすることが、世知辛い人生をうまく生き抜くためには必要なのかなあと、わが身を含めて改めて感じさせられます。
文責:臨床心理士・名倉