おうばく通信
おうばく心理室コラム
2014年10月 5日 (日)
【おうばく心理室コラム/2014年10月】今を生きる類人猿、過去と未来に生きるヒト
先日開かれた心理学関係の学会で、京大霊長類研究所の松沢哲郎先生の講義を聴く機会を得ました。
心理学は本来、人間のこころを解明するための学問であるのに、どうして類人猿(チンパンジーやゴリラ、ボノボなど)ばかり研究しているのか?
このような問いに対して松沢先生いわく、日本がどんな国なのかを知ろうと思ったら、日本国内のことばかり研究していても限界があるでしょう? 諸外国の文化や実状を知ることによって初めて、日本という国の特徴が見えてくる側面があります。それと同じで、人間とは何かを知るためには、ヒト以外の動物と比較することも重要で、そうすることによって初めて、ヒトをヒトたらしめている特徴が見えてくるんです、と。
そして講義は、類人猿とヒトのさまざまな違いを紹介しながら、ヒトとは何か? という根源的な問いに対する答えを模索していきます。そのいずれも興味深いものでしたが、筆者の印象にもっとも大きく残ったのが、次のような違いです。
「眼の前の現実を認識する能力に関しては、類人猿のほうがヒトよりもずっと優れている。しかし、未来を想像する能力に関しては、ヒトのほうが類人猿よりもずっと優れている」
たとえば、森に生えている100本の木のうち10本に果実が生っているという場合、類人猿は一瞬見ただけで全てを認識して果実のある10本を正確にたどることができる一方、ヒトは一瞬見ただけではそこまで認識できず、おおまかな記憶に頼って行動するしかないと思われます。 しかし100本の木のうち、現在は果実をつけていないけれども今後果実をつけそうな木にあたりをつけて数日間待つという行為は、類人猿には不可能で、ヒトにしかできないと思われます。
つまり、類人猿は「今を生きて」いるのに対して、ヒトは今ではなく「過去と未来に生きて」いるのです。
このことを示すエピソードとして、難病のため全身不随になってしまったチンパンジーの反応が紹介されていました。そのチンパンジーは意識清明であるものの、身体をまったく動かすことができず、このさき治る見込みもない。このような状況は、ヒトであれば絶望感やそれに伴う抑うつ状態を招きそうなものですが、チンパンジーはとくに落ち込むようすもなく、飼育担当者がかまってやると歓声をあげて喜ぶし、誰からもかまわれないと退屈そうにしているだけだといいます。 つまり、手足を動かせない現状に対する不便さや退屈さは感じるものの、将来のことを想像する能力がないため、この先自分はどうなるんだろう……といった思考に陥ることは一切なく、その瞬間が楽しければ心の底から楽しく感じるのです。
彼ら類人猿の特徴を聞くと、少々うらやましくも思います。私たち人間は、将来のことを想像する「知能」を獲得したからこそ、農耕や牧畜による長期的な安定生活を手に入れ、他の動植物をおしのけてこれだけ繁栄しているのでしょう。
このような想像力や予測能力は、自然淘汰を生き延びるためには有用であったし、長期的な安定予想を得られたときの安心感は甘美なものであったかもしれません。しかしその代償として私たちは、諸刃の剣として、将来への不安に常にさいなまれるノイローゼ的傾向を背負うことになったとも言えましょう。 猛獣に襲われる危険性や食糧難に陥る可能性は小さくなった現代社会ではありますが、今度は「将来ガンになったらどうしよう」「お金がなくなったらどうしよう」等々、不安の種はそれこそ無尽蔵です。そして毎年健診を受け、貯金に励むことで束の間の安心を得ながらも、それらを失う不安にさいなまれ続ける……。
だからこそ私たちは、こころのバランスをとるために、「今を生きる」意識を持つほうがいいのだと考えています。もちろん、ここまで来た人間社会の中では刹那主義だけでは適応できませんし、長期的な損得を考えることの重要性は前回の拙コラムでも取りあげたとおりです。
ただ、過度の不安や悲観的思考から心身に変調をきたしてしまう人が増えている状況は、まさしく「人類病」だと言えるでしょう。知能が発達しすぎたがゆえの不適応を軽減していくために、「今を生きる」ことへの立ち戻りを重視する森田療法やマインドフルネスなどの手法が再び注目されているのは、当然のことであるように感じる昨今です。
今こうして自己満足の原稿を書いている幸福感といささかの罪悪感をこの身に感じながら。
文責:臨床心理士・名倉