おうばく通信
おうばく心理室コラム
2014年9月 5日 (金)
【おうばく心理室コラム/2014年9月】目先の利益をとるか、長い目で見た利益をとるか?
たとえばここにお腹を空かせた10人の集団があるとします。そこにお饅頭が5個配られたら、10人はどういう行動をとるか?
さまざまなパターンが考えられるでしょう。
・10人全員で奪い合いとなり、各々が腕力に応じて得られたお饅頭を食べる。
・腕力の強い1人が5個のお饅頭を独り占めして食べる。
・腕力の強い1人が独り占めしたのち自ら3つ食べて、残り2つをひいきの2人に1つずつ分け与える。
・腕力の強い1人がリーダーシップを取り、平等に1人半個ずつ分配する。
・誰が言い出すわけでもなく1人半個ずつ分け合って食べる。
普通に考えれば、この集団は最後の「誰が言い出すわけでもなく1人半個ずつ分け合って食べる」という行動をとることでしょう。私たち人類が社会的動物だと言われるゆえんです。
一方、バッタやコオロギのように原始的な動物は、最初の「全員で奪い合いとなり、各々が腕力に応じて得られたお饅頭を食べる」という行動をとることでしょう(バッタやコオロギがお饅頭を好んで食べるのかどうかは知りませんが、たとえ話ということで……)。
ではなぜ私たち人間は、奪い合うようなことをせず、みんなが平等になるよう分け合って食べようとするのか? これは究極的には、自分が生き残るための行動です。
お腹を空かせた1人の人間からすれば、お饅頭を5つとも食べたいのはやまやまです。単純に自分のことだけ考えれば、我先にと5つのお饅頭をすべて奪って食べたほうが、生き残る可能性は高くなるはずです。 しかし、周りには自分以外にも個体がいます。みんなが同じような行動を取ろうとすると、奪い合いの決闘になってしまいます。お饅頭が配られるたびに流血騒ぎを起こすグループは、そのうち全員が傷ついて自滅してしまうでしょう。
もしかすると、腕力の強い特定の個体がお饅頭を独占し始めるかもしれません。しかし、それを妬む残りの9人が結託して、お饅頭を独占している1人を襲えば、いくら腕力が強くても太刀打ちできっこありません。結託した9人が再び奪い合いを起こせば、結局は同じことが繰り返されるのみです。
配られた5つのお饅頭を平等に分け合い続けた集団は、誰も傷つかず全員が生き残ることができるのに対して、奪い合ったり誰かが独占しようとしたりした集団は、お互いに傷ついて全員が滅んでしまう。このような自然淘汰を経た結果、私たち人間を含む高等動物は、お互いに協力しあってみんなが生き残ることで、結果的に自分の身の安全も確保するという生存戦略を取るようになったものと思われます。
事実、原始時代の人類は手に入れた食料を徹底して平等に分け合う習性を持っていたため、人間同士の決闘はほとんどなかったと言われています。彼らには人間同士で戦うような余裕などなかったのでしょう。 自分の利益は我慢して集団としての利益を優先させる。こうすることによって、その集団の生存可能性は高くなり、ひいては個々人の生存確率も高くなるのです。
自分の目先の利益だけを考えて行動すると、短期的には得をするかもしれませんが、長期的には集団からスポイルされて損をする。逆に、相手や集団の利益も考えて利他的な行動をとると、短期的には損をするかもしれませんが、長期的には集団の安定を通じて自分も得をする。「情けは人の為ならず」と言われるとおりです。
ただ、あまりにも自分の利益を犠牲にしてばかりいると、周りの人々から搾取されて本当に自分の生存可能性を低めてしまうおそれがあります。 また、全員がルールを守っているうちはいいのですが、自分だけ目先の利益を大きくしようとする者が現れた場合、それに対しては周りの人々が断固たる措置をとる必要があります。目先の利益を大きくしようとする者だけが得をして集団全体が食い物にされたり、全員が目先の利益だけを追求しはじめたりして、その集団が滅んでしまうことになるからです。
自分勝手な行動が長期的には自分の不利益につながるのと同様、自分を犠牲にしてばかりの行動も自分の不利益になってしまいます。したがって、「自分の身は守りながら相手や集団のことも考えて行動する」方略が重要となります。
……長々と当たり前のことを書き連ねましたが、短期的利益と長期的利益の原則は対人関係上の問題にとどまらず、依存症など幅広い不適応の根底をなしているように感じます。
対人コミュニケーションの見地に立つと、「攻撃的コミュニケーション」は自分の思い通りに物事を進めようとしている点で短期的利益を優先させていますし、「非主張的コミュニケーション」は眼前の相手から嫌われないため自己を犠牲にしている点で短期的利益を優先させています。しかし、いずれのコミュニケーションも長期的には不適応に陥りやすくなります。ここ大切なのは「アサーティブ(自己主張的)コミュニケーション」で、短期的には手間がかかるかもしれませんが、相手の気持ちにも耳を傾けながら自分の希望も相手に伝え、理解を深めながらお互いがOKとなるような関係をはぐくんでいくことです。
依存症などの不適応も、平たく言えば、薬物や買い物といった「目先の快楽」すなわち短期的利益を優先させるあまり、その後の長期的利益が損なわれてしまう現象です。このような構図を修正するためには、短期的利益を我慢すれば長期的利益が得られるんだという経験を積み重ねていく必要があります。これが行動療法の基本的な考えかたです。
私たち人類の知能の高さは、よく言えば賢明さである反面、悪く言えば狡猾さでもあり、使いかたを間違えると自らをおとしめる方向にも振れてしまいます。長期的な予測能力や計画性を獲得したがゆえの、卑近なところではおためごかししかり、社会的規模になるとマキャベリズムしかり。 その分かれ道は、一般的には「道徳性」や「EQ(こころの知能指数)」といった言葉で表現されますが、利益の時間と範囲を長く大きくしていくと、自ずと賢明な方向へとシフトするように思います。目の前の利益に飛びつくのは「短絡的なバカ」、中途半端に先の利益を目論むと「小賢しいヤツ」と見なされがちでしょう。しかしもっと長く大きく、数十年後の利益や自分を含めた人類全体の利益を考えれば、「聡明な人」と評価される行動がとれるのではないでしょうか。
結局みんな自分さえよければいいんだよ! とおっしゃる方もありましょうが、人類は自分一人では生きられないし、幸福を得ることもできないのですから。自慢するにも相手が必要だし、褒めてもらうにも相手が必要なのが私たちの人生……ではありませんか?(笑)
文責:臨床心理士・名倉