おうばく通信
BUCきょうと機関誌『ばっくる』連載エッセイ
2022年7月 7日 (木)
月刊きょうと/「長野での3年間」(2022年7月)
今回は、なんばらばらばらさんに「長野での3年間」について寄稿していただきました。過去の仕事の思い出や、感じられたことがまとめられたエッセイです。
私は今の職場が3つ目です。最初はプログラミングの仕事を始めましたが、ITバブルがはじけ、あっさり新人からリストラされました。当時は『終身雇用』が当たり前で『転職』なんて特別なことのように感じていました。それだけに、わずか半年で『終身雇用』のレールから外れたことに、「自分は落ちこぼれだ」「必要とされてない」などといった気持ちでいっぱいでした。
資格の勉強でもしようと思っていた矢先に、大学時代に世話になった方から、仕事を紹介されました。山村留学にかかわる仕事でした。過疎地の小学校などは児童数も少なく、複式学級(1・2年、4・5年など、複数の学年が同じクラスで学習する)になってしまって学力低下が懸念されていました。生まれた時から皆同じ顔ぶれで、その中の序列も固定されてしまい競争もありません。そんなところへ、都会で暮らす子供を転入させて児童数を増やそうと始まったのが山村留学です。都会の子供の親にすれば、実家も都会で子供に田舎暮らしを経験させてやれない、と思う親も多いようで、家族ぐるみあるいは子どもが、転入してきます。当時は全国で100を超える地方自治体で実施されていました。長野、新潟、北海道などが多く、留学してくる児童は東京大阪愛知など大都市出身者が多いです。
私が紹介された長野県小谷村の山村留学は、センター方式。子どもだけが転入してきて、そのセンターの寮で寝泊まりします。その、寮の指導員の仕事を紹介されたのです。もともと信州に憧れがあって、「いつか行きたい、暮らしたい」と思っていた私にとっては、願ってもないことでした。とは言え、初めての見学のために夜行列車で揺られていた時は『都落ち』のような気分に浸っていました。
長野は雪国とは言え、松本や長野といった都会では、大した雪は積もりません。小谷村は豪雪指定を受けるような地帯で、私が訪ねた3月でも、まだ雪深く、除雪でかき集められた道路際の雪は、ゆうに3メートルをこえた壁になっていました。いくつかの谷に分かれ、さらに小さな集落にポツンと建てられた、分校の旧校舎が、センターの寮に改装されていました。私はそこで寝泊まりしながら、小学1年から6年までの子供20数名とともに暮らすことになったのです。
おおよその仕事は生活面の指導やセンターの維持管理、食事の調理、親の代わりに学校での懇談やPTA活動にも参加するなどです。また休日は子供たちのレクリエーションを実施します。地元の方に協力いただいての畑仕事や山菜取り、キノコ狩り、川遊び。地元のお祭りにも参加しました。
思い出はたくさんあるのですが、ここで私にとってカタルシスな体験をお話しして、終わりにしたいと思います。前述のように、私は「自分はレールを外れた」と思い込んでおりました。当時まだ、そんな言葉はありませんでしたが『負け組』のつもりでいたのです。ところが、地元の方々とお付き合いしてみると、会社勤めの方はごくわずかです。ほとんどの方は土木業や建設業に就いておられました。それでも雪が降れば地面は掘れなくなりますし、会社自体に仕事がなくなって、働ける期間は半年程度。そうすると地元の方々は皆、退職して失業手当を受けながら、昔は遠方の酒造会社へ出稼ぎに。最近は近くにスキー場など観光施設がたくさん出来ているので、スキー場やホテルなどで働くのだそうです。毎年、半年は土木、半年はスキー場といった働き方。「そんな働き方でも生きていけるのだ」「たった1回の失業で何をうなだれていたのだ」と、気持ちが軽くなっていったのを今も覚えています。