おうばく通信
BUCきょうと機関誌『ばっくる』連載エッセイ
2020年11月 1日 (日)
月刊きょうと/「名もなき職人たちへ」(2020年11月)
今回はメンバーのM.Yさんが、昔の京都に起こった文化の危機、それを乗り越えた職人さんたちの奮闘を紹介してくださいました。
今コロナ渦で私たちの生活もいろいろな変化が急激に起こっています。みんなで協力して、工夫して乗り越えたいですね。
明治維新によって、京都には文化の危機が訪れていました。そのきっかけは「東京遷都」です。千年の都にとって、「帝が京から離れる」という事実がもたらすインパクトは、現代の我々が想像するよりもはるかに大きなものでした。
東京遷都の最も大きな原因は、戊辰戦争でした。旧幕府勢力および奥羽列藩同盟(東日本25藩からなる軍事同盟)は政府軍と激しい内戦を繰り広げ、鳥羽伏見、上野、会津などを転戦し、函館五稜郭での終戦を迎えてなお、残党が関東・東北を中心に相当数存在していました。それを牽制すべく、明治政府は東京に首都を据えたのです。
遷都によって、公家や彼らを顧客にもつ有力商人たちも京都を離れ、人口は35万人から20万人余りに激減してしまいました。京の絵師たちにとって、それは大きな試練でした。急速な西洋化と引き換えに日本の伝統的な価値観が揺らぐ中、貴族や豪商という有力なパトロンまで失ってしまったからです。絵師たちは生き残りをかけて、服飾デザインへの接近を試みました。着物や帯の下絵を提供することで糊口をしのいだのです。
そんな折、京都の産業界に一大プロジェクトが持ち上がります。それは「ビロード友禅の輸出」でした。ちなみに「ビロード」とはベルベットのことで、元は南蛮貿易によって戦国時代の日本にもたらされたものでした。ビロードは信長や秀吉などの戦国大名にもてはやされ、陣羽織やマントに仕立てられました。幕末になって不良の舶来品(横糸として仕込まれた針金の抜き忘れ)から偶然に製法が解明され、国産化されました。
室町時代創業の京友禅の老舗「千總(ちそう)」の十二代目当主は、「ビロードに友禅染を施し、一部を起毛することで独特の立体感を出した大きなタペストリーを外国に売る」という事業を思い立ちます。さっそく彼は竹内栖鳳や岸竹堂といった京都画壇の重鎮に下絵を依頼し、京友禅の職人に製品を作らせ、高島屋貿易部の力を借りて輸出するという、オール京都による一大プロジェクトに取り組みました。結果試みは成功し、1900年のパリ万博では仏女優のサラ・ベルナールが作品を買い上げたとの記録も残っています。
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ここで興味深かったのは、絵師と職人たちの関係性です。画壇の権威と一介の職人、危機がなければ決して交わることのなかった両者。絵師たちは職人に出会い、彼らが持つポテンシャルに驚愕したに違いありません。そう断言するのは、ある美術展で絵師の描いた下絵と実際に出来上がった製品とを見比べる機会があったからです。絵師が描いた下絵に対して、職人たちは独自の解釈で、場合によっては全く別物と言って良いほどのアレンジを施していたのでした。普通ならば絵師のプライドが許す筈はなかったと思いますが、おそらく彼らは現場の職人の力量を信頼し、自由にアレンジされることの妙味を楽しんだのではないかと思います。(でなければ今日までその作品が大事に残されている筈が無いからです。)そのとき私は、現場で汗をかく人間の底力が認められた瞬間に立ち会ったような、何ともいえない高揚感を覚えたのでした。経理という地味なポジションで仕事をする自分も、いつかどこかで評価される日が来るんじゃないかと、なんだか勇気づけられたような気がしたのです。
色んな現場で汗をかく、名もなき「職人」たち。そのすべての才能と努力に敬意を。長文失礼しました。