おうばく通信
BUCきょうと機関誌『ばっくる』連載エッセイ
2020年9月 1日 (火)
月刊きょうと/「鬼の柔道 木村政彦」(2020年9月)
今回はメンバーのTHさん(男性)に、「鬼の柔道 木村政彦」について書いていただきました。
皆さんは、ロサンゼルスオリンピック柔道無差別級金メダリスト山下泰裕氏をご存知でしょうか?国内外で203連勝というとてつもない記録を打ち立てた人です。この山下氏よりも強かったと言われている柔道家がいます。それが木村政彦なのです。木村と山下とは年齢が約40歳位離れていて当然戦ったことはないのですが、木村の方が強かったという人がたくさんいます。
では、木村とはどういった人だったのでしょうか。全日本選手権13年連続保持、天覧試合優勝も含め15年間不敗のまま引退。「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と讃えられ、現在においても史上最強の柔道家と称されます。そして、荒々しい試合運びから「鬼」と讃えられています。
身長170㎝、体重85㎏と私とあまり変わらない体格ながら、トレーニングにより鍛え抜かれた強靭な肉体、爆発的な瞬発力、得意技である切れ味鋭い大外刈りのスピードとパワー。またこれらを支える一日10時間を超える練習量と、柔道に命を賭す強靭な精神力を武器に15年間不敗を成し遂げました。元々木村は他の選手の倍の6時間から7時間練習していましたが、絶対に勝利するために辿り着いた結論が「3倍努力」です。拓殖大学に入ってからの木村の練習量は10時間を超えました。拓大での稽古だけではなく他大学や警視庁、皇宮警察などを回って乱取り稽古をしていました。乱取りだけで毎日百本をこなし、その後バーベルを使ったウェイトトレーニング、巻き藁突きを左右千回したそうです。そのかいあって、1940年、天覧試合で優勝します。
だが、戦後、食べていけない時代にプロ柔道に参戦したこと、さらにプロレスラーに転向して力道山と不可解な謎の試合を行い、これに敗れたため、講道館をはじめ戦後の柔道
界は木村の存在そのものを柔道史から抹殺し、柔道・プロレスマニア以外にその名を知る者はいなくなっていきました。
なぜ、プロレスに転向したかというと、妻が当時死に病だった結核にかかったのが理由であり、アメリカ製の高価な薬ストレプトマイシンの費用を捻出するためでした。この薬のおかげで妻は命をとりとめました。なんと優しい男でしょう。自分の嫌いなショーであるプロレスに身を投じて妻を救ったことに感動しました。
1961年、再び柔道界に戻り、拓殖大学柔道部監督に就任しました。のちに全日本柔道選手権大会覇者となる岩釣兼生らを育て、1966年には、全日本学生柔道優勝大会で拓殖大学を優勝に導きました。
1983年、拓殖大学柔道部監督を勇退しました。
1993年4月18日、大腸がんのため75歳で死去しました。
紆余曲折あったでしょうが、素晴らしい人生だったと思います。