おうばく通信
おうばく心理室コラム
2019年4月 5日 (金)
【おうばく心理室コラム/2019年4月】「やれと言われるとイヤになる、やるなと言われるとしたくなる、~アマノジャクの心理」
私自身も正にそうなのですが、「やれと言われるとイヤになる、やるなと言われるとしたくなる」というアマノジャクな面を、私たちは多かれ少なかれ持っているのではないでしょうか。
たとえば、上司から「この著書は非常に参考になるから目を通しておきなさい」と言われると、どうも手に取る気にならず積ん読状態を続けてしまったり。逆に「この著書は誤解を生むおそれがあるから読まないように」と釘を刺されると、辛抱たまらず即刻手に取って読破してしまったり(笑)。
そういえば小学生の頃から、本を読むのは全般的に好きだったのですが、夏休みの課題図書だけは読む気になれず、それ以外の本ばかり読んで宿題がちっとも進まなかったのを思い出します。
これは心理学的には「心理的リアクタンス」と呼ばれる現象で、その本質は、(本コラムでもしばしば取り上げている)自己効力感を保持しようとする反応であると考えられます。
私たちは、「自分の行動を自己決定して、それが良い結果につながった」ときに大きな喜びと達成感を得ることができます。同じテストで100点満点を取ったとして、それが親から勉強を無理強いされた場合と、誰から言われたわけでもないけれど自分なりに工夫して勉強してみた場合とを比べてみるとどうしょうか?
親から無理強いされて勉強した場合は、満点を取っても「これで叱られずに済む…」といった消極的な感情しか生じないことでしょう。一方、自分で工夫して勉強した場合は、自分に対する満足感や自信、達成感といったポジティブな感情がいろいろと起こってくるはずですし、今後もがんばるぞ! という前向きな気持ちも出てくることでしょう。
前者は「親の言いなりに行動したら成果が出た(=成果は親のもの)」という受動的な因果であるのに対して、後者は「自分で考えて行動したら成果が出た(=成果は自分のもの)」という能動的な因果である点が最大の違いです。つまり、前者の自分は誰かに操られる駒であるのに対して、後者の自分は主体を持った自己なのです。
駒でいるほうが楽でいいやという考え方もあるでしょう。たしかに受動的存在であれば、自分で考えなくていいし責任も軽いし、小さな負担で済むかもしれません。しかしその代償として、自尊心や自己効力感は十分に育まれず、むしろ無力感や絶望感が募りやすくなります。一方、主体性を持った「自己」として行動すると、責任を引き受ける勇気は必要ですが、成功体験を積み重ねるごとに自己成長していきますし、もし失敗体験に直面してもそれを自己責任として引き受けて試行錯誤することで学習と成長につながります。
私たち人類は、各々が協力し合うことで生き延びてきた社会的動物ではありますが、皆が単なる受動的・従属的存在だと集団の質の向上が望めません。したがって、ある程度の協調性は持ちながらも各人が能動的な創意工夫に喜びを感じるような性質が、私たち人類の進化において両立する形で発展し、受け継がれてきたのではないでしょうか。
こういった心理的リアクタンスを逆手にとった心理療法の代表が、家族療法や短期療法で用いられることのある「パラドキシカル(逆説的)アプローチ」です。
たとえば平和な家庭を目指しているのに毎日のように夫婦喧嘩をしてしまう人に対して、ふつうに考えれば「夫婦喧嘩は絶対にしないでください」と言いたくなるところですが、むしろ真逆のアドバイスをします。
「その調子です。今後は毎日、夕食が終わったら必ず夫婦ケンカをしてください」
本来外発的に生じる出来事を内発的に行おうとするとバカらしくなってくるという効果を狙った介入であり、その背後には「夫婦喧嘩をする=カウンセラーの言いなりになる」という状況に対する心理的リアクタンスも存在します。夫婦ともに自己効力感を取り戻そうとすると、「いいや、夫婦喧嘩などしてやるものか!」という適応的な反抗になるのです。
人は自分で決めたことなら頑張れますし、頑張り続けることで自己コントロール感も高まります。一方、誰かに強制されたことはイヤになりますし、イヤイヤ続けたところで高まるのは不満ばかりです。「ロミオとジュリエット効果」と呼ばれる現象も、本質は意外とこのあたりにあるような気がします。
そういえば最近、神戸大学と同志社大学の共同研究で「日本人の幸福度を決める最大の要因は『自己決定』だ」という結果が発表されたそうで、私たち日本人にとって自分で意思決定するのは、心の健康を大きく左右するとりわけ大切なことなのかもしれませんね。
文責:臨床心理士・名倉