おうばく通信
おうばく心理室コラム
2017年11月 5日 (日)
【おうばく心理室コラム/2017年11月】「完ぺき主義の経済学」
うつや不安による不適応を起こしやすい性格のひとつに、「完ぺき主義」があります。
「満点でなければ0点と同じ」的な考え方で、100点満点のテストで90点を取っても、取れなかった10点にばかり目が向いてしまうため、メンタル面の不調が慢性的に続きやすいわけです。
完ぺき主義にも長所はあります。高い理想を自身に課して、その理想に向かって突き進んでいくわけですから、非常にストイックな努力と忍耐力が要求されます。傑出した作品を生み出す職人さんや競技で金メダルを取るようなスポーツ選手など、一流と言われる人たちの多くは、一切の妥協を排して究極を追い求める完ぺき主義者であると推察されます。
職人さんや選手に限らず、私たち一般人においても、高い理想や向上心は大切なものです。病院など医療現場はもちろん、建築、航空、電化製品、食品製造など、ミスや手抜きが人命や健康を左右する業界は数えきれないほどありますし、どのような仕事においても、さらには学業や家庭においても、自己成長の意識は人間として常に大切なことのひとつでありましょう。
では、完ぺき主義はどこまでが良くて、どこからが悪いのか? 線引きは容易ではありませんが、いくつかのポイントがあるように感じているので、思うところを書いてみることにします。
ひとつめは、その「程度」です。
理想を高く持つのは大切である一方で、何ごとにも適切なレベルがあます。必要以上に高すぎる理想は無意味であるばかりか、費用対効果を著しく下落させて社会不適応につながるおそれがあります。
世のなか多くの事象は、一定レベルまでは並の努力で向上しますが、それを越えて満点に近づけようとすると、要される努力は指数関数的に膨れ上がっていきます。
たとえばフルマラソンのタイムで考えてみると、同じ1時間の短縮であっても、「6時間を5時間に短縮する」のは一般市民が軽いジョギングを行う程度の練習で達成可能ですが、「3時間を2時間に短縮する」のはトップアスリートが血のにじむような練習を日々重ねても難しく、2時間を切るのは人類の身体構造的に無理だとも言われています。
フルマラソンのような極限のケースでなくても、実際に聞いた話としてこんな事例があります。仕事の注文を受けたあるライターが、依頼通りに原稿を書き上げたものの自分で納得がいかず、書き直しを繰り返しているうちに〆切日を過ぎてしまって、かえって編集者からの信頼を失って仕事が回ってこなくなったのだとか。「合格点(70点くらい)の原稿を〆切通りに出してほしい」という編集者の要請に対して、合格点では気が済まず100点を追求するあまり〆切を守れなかったこのライターの完ぺき主義は、「ニーズよりも自分のこだわりを優先させたため編集者に迷惑をかけて仕事も失った」という社会不適応を呈している点で、悪い意味での完ぺき主義と言えるでしょう(もちろん、仕事を失うという短期的なデメリットがあっても、納得のいく大作を書き上げて受賞作家になるという長期的メリットにつながる場合もあるとは思いますが、可能性としては低いでしょう)。
したがって、求められるレベルに達するための努力は必要ですが、それを大幅に超えて高いレベルを目指すことは、相手の事情を鑑みない自己満足になってしまうかもしれませんし、努力が徒労に終わってしまうかもしれないのです。
ふたつめは、その「範囲」です。
仕事の内容によっては完ぺきを追求しなければいけない場合もあるでしょう。とくにトップレベルの職人や選手、あるいは医療をはじめとする人命を左右する業務に就いている人たちなどは、とりわけ妥協を排して全力を注ぐことが求められる職業かもしれません。
しかし、職人や選手、医師なども、仕事や生活の全領域において完ぺきを追求すべきかと言うと決してそうではなく、オフの時間は惰眠をむさぼって休養することがあってもいいでしょうし、大事な試合や手術執刀の前後は家事や人付き合いなどが多少ないがしろになってもやむを得ないでしょう。
逆に、仕事も完ぺきにこなしつつ、家事も交友関係も趣味も全て100点満点を取ろうとすると、疲労困憊して倒れてしまう危険すらあります。何かを得るためには、何かを手放さなければならないことも多いのです。
したがって、物事に優先順位をつけて、「これは100点を目指すべきだけど、これは手抜きして60点くらいでOK」といった判断を下せる柔軟性とメリハリが大切です。その優先順位は、相手からのニーズもあるでしょうし、自分自身の価値観(何に人生の重きを置くか)によって決まる部分もあるでしょう。完ぺきな作品を作るためなら睡眠も食事も人間関係も犠牲にする! という画家がいたとしても、(メンタルヘルスの立場からはあまりお勧めはできませんが)それはそれでひとつの価値観であり、個人の選択の自由として尊重されるべきものです。ただし、絵画も家事もスポーツも人付き合いもすべて完ぺきを目指している人がいたとしたら、スーパーマンのような人でない限りいつか破綻してしまうこと必至でしょう。
そのようなわけで完ぺき主義。必ずしも悪いわけではなく、人間として大切な向上心でもありますが、費用対効果の観点からの「程度」と、優先順位の観点からの「範囲」を意識する必要があると言えそうです。
かくいう筆者も、料理を作るのが趣味で庖丁を研ぐことがあるのですが、あるとき「研いだ庖丁をカンペキに仕上げよう!」と思い立ち、何種類もの紙ヤスリを使って4~5時間くらい磨き続けて鏡面仕上げにしたことがあります。磨き終えたとき、ささやかな達成感はあったものの、同時にクタクタになって「庖丁に自分の顔が映るようになったけど、こんなことして何になるんだろう」という素朴な疑問に心が折れてしまい、以降はもう一度もやっていません(というか普通、やる前から分かるだろうという話ですが。笑)。心が折れるのもある種、心の安全装置なのかもしれません。家じゅうの金属製品を鏡面仕上げにしようとしていたら、きっとエラいことになっていたでしょうから……。
文責:臨床心理士・名倉