おうばく通信
おうばく心理室コラム
2016年11月 5日 (土)
【おうばく心理室コラム/2016年11月】言葉にすることの大切さ
本コラムもここ数回、食事や運動など心理面以外のテーマが続いていたので、今回は原点に返って心理面の基本についてご紹介したいと思います。あまりに基本すぎて取り上げるのをすっかり忘れていましたが、「言葉にすることの大切さ」です。
私たちは日ごろから、いろんなことを考えたり感じたりしています。友人との会話、仕事での失敗、上司からの叱責などなど……。そしてその度に、相手への気遣いや嬉しさ、寂しさ、自分を責める考え、悔しさなどなど、さまざまな思考や感情が心に浮かんでいるはずです。
こういった思考や感情は、おもに言葉によって自覚されます。「○○さんはショックなことがあって落胆しているなあ」とか、「こんなケアレスミスをしてしまう自分は本当に不注意でダメな人間だ」とか、「上司は自分では何もせず責任を押しつけてきて腹が立つけど、立場的に言い返せないのが悔しくて仕方ない」といった具合です。
「身体のむずむず感」や「顔の紅潮」といった非言語的なサインで自覚される部分もありますが、私たち現代人は基本的に言葉で考え感じる生き物なので、思考や感情はその人が持っている言葉によって規定される部分が大きいのです。
さらに言うなら、私たちの思考や感情は――とりわけ感情は――本来いろんな要素が微妙に絡み合ったアナログなものであり、「喜」「怒」「哀」「楽」といったデジタルな言葉で全てを表現しきれるものでは到底ありません。たとえば、大切に育ててきた実娘が結婚して巣立っていくときにその父親がモヤモヤした気持ちを抱えていながら「嬉しい」とだけ表現するとき、おそらくは複雑な気持ちや感情を「嬉しい」という言葉に無理やり押し込めているだけで、あたかも実風景を非常に解像度が荒いデジタル画像に変換しているようなものでしょう。
このデジタル画像の解像度をもう少し上げるなら、「娘の巣立ちと幸せを嬉しく思う気持ちのどこかに、娘が手元から遠ざかっていくような寂しさが入り混じり、娘の幸せを素直に喜べないこんな自分に対して、我ながら未熟な父親だなあという忸怩たる思いが込み上げてくる」といった表現になりましょうが、これでも私たち人間の複雑な心中を完全に描写しているわけではなく、あくまでも言葉へのデジタル変換の解像度が少し高くなっただけの話です。言葉で考え感じている私たちは、「言葉という既製品」による制約から逃れられないのです。
ただ、「言葉の解像度」が低い人と高い人とでは、同じような心の動きに際して自覚できる部分、自分ですくい取れる部分が大きく違ってきます。先ほどの父親の例で言うと、次の図のようになります。
一番上の図の黒い雲のようなものが、当の父親の複雑な心情だとします。
二番目の図では言語化されているのは「嬉しい」という部分だけで荒削りなため、それ以外の多くの部分が明確に自覚できないまま黒く残っています(=意識化されない暗黒領域)。
三番目の図では言語化がきめ細かくなっているので、自覚できている領域が大きくなり、意識化されない暗黒領域が小さくなっています。
少し話は逸れますが、みんなが決まり文句のように使っている「簡単で便利な言葉」があります。たとえば近年、一部の若者がよく口にする「これ、まじヤバい!」といったセリフ。美味しい料理や面白いマンガ、かっこいい服などなど、さまざまな場面で使える簡単で便利な言葉です。 このように言いさえすれば会話が通じるので、話すほうも聞いているほうもお互いに楽ですが、この種の言葉には大きな副作用があります。先述した「言葉の解像度」が非常に荒いため、私たちの心の微妙を何でもかんでも分かりやすい言葉に無理やり押しこめてしまう結果、意識化されない暗黒領域がどんどん積み重なってしまうのです。
心の葛藤やつらさが、気持ちの落ち込みなど精神症状ではなく、身体の痛みなど身体症状として現れる疾病群があります。時代によってさまざまな名称で呼ばれていますが、仮面うつ病や身体表現性障害などがそれに該当します。そして、こういった疾病になりやすい傾向として「アレキシサイミア」(失感情症と訳すのが通例ですが、失感情言語化症と訳すほうが正確です)が指摘されています。本当は怒りや悲しみなどの感情が生じているのに、それらを意識化・言語化できないために自覚できず、自分でも知らないあいだにうっ積させて身体症状として現れてしまうのです。
上の図でいうと、きちんと意識化・言語化され自覚できている部分は、自分自身で扱いコントロールしていくことができますし、グチを言ったりして発散することも、解決のための行動を取ることもできます。しかし、自覚できていない領域は自分自身でも扱うことができず、風化しないまま心の中に積もり積もっていきます。
では、このような状態にならないためにはどうすればいいか? それが冒頭に述べた「言葉にすることの大切さ」になるわけですが、具体的には次の2つの両方が重要です。
1.自分の気持ちや感情、思考をきめ細かくキャッチする
2.キャッチした気持ちや感情、思考をアウトプットする
「1」がしっかり行えるためには、できるだけ多くの語彙を持つことと、自分の心の状態に丁寧に耳を傾ける姿勢とが必要です。
またもや話が逸れますが、昔から魚を愛好してよく食べてきた私たち日本人は、魚に関する語彙をたくさん持っています。サバやアジといった固有魚はもちろんのこと、ブリなどは幼魚から順にツバス→ハマチ→メジロ→ブリという具合に成長にともなって名称が変わっていきます。これらの語彙を持っている私たちは、「これはサバで、これはアジだな」「サバは〆サバや塩焼きにすると旨いし、アジはフライや南蛮漬けにすると旨いんだよな」という風に無意識のうちに区別を付けられます。
しかし昔からあまり魚を愛好してこなかった欧米人は、魚に関する語彙が日本人にくらべて乏しいと言われています。たとえば、サバとアジの区別も不明瞭でいずれも” mackerel”と総称されますし、ましてやハマチとブリの区別などあり得ないでしょう。このように語彙を持たない欧米人は、サバとアジも区別されず同じような魚として認識してしまうのです。
私たちが自分の気持ちや感情、思考を表現する際の語彙もこれと同様です。たとえば、さまざまな「怒り」をなんでもかんでも「なんかチョーむかつく」という語彙でしか表現できない人は、言ってみればサバもアジも区別なく” mackerel”としてしか認識できない欧米人のようなもので、言葉の解像度が低いため、自覚できない暗黒領域が多く生じてしまいます。
一方、さまざなな「怒り」をその都度、憤慨、激憤、憤怒、私憤、義憤、余憤、憤まんやるかたない……という風に使い分けられる人は、それだけ言葉の解像度が高く、自覚できない暗黒領域が少なくて済むことになります。 手持ちの語彙が大切だというのはこういうことです。語彙を増やすためには、多くの書物を読んだり、映画や演劇を観たりといった活動が有効でしょう。
会得した語彙を適切に用いるためには、自分の状態を細やかに感じとる力も必要です。「今ここで」自分がどんな気持ちや感情を抱き、どんなことを考えているのか? ちょっと立ち止まって、自分の心に耳を澄ませてみてください。そのためにはマインドフルネス瞑想の習慣も有効です。
そして、感じ取った自分の状態を実際に言語化してアウトプットできればOK! です。自分の気持ちや感情、考えなどを誰かに話すのが一番ですが、それができないときは、自分で日記など文章にするだけでも効果があります。頭の中で考えるだけでなく、「喋る」「書く」で外に表現することが重要です。実際に言語にすることで、モヤモヤした気持ちや葛藤は整理され浄化されるのです。
皆さんも是非、語彙のインプットを充実させながら自分の内面に耳を傾け、それらを会話や文章でアウトプットする機会を増やしてみませんか?
文責:臨床心理士・名倉