おうばく通信
BUCきょうと機関誌『ばっくる』連載エッセイ
2016年10月 1日 (土)
月刊きょうと/「京都で文学散歩はいかが」(2016年10月)
今回は利用者のみのやんさん(男性)に、京都を舞台とした文学作品のいくつかをご紹介いただきました。
京都は観光の街であると同時に、文学の舞台の街でもある。 そんな京都に憧れて、私は遠く九州から京都に大学を求め、そして、何かの縁か、その京都で長く暮らしている。 そんな私を魅了した、京都を感じさせる小説を3つほど紹介したい。
一つ目は、川端康成の『古都』です。
ヒロイン千重子は、実は双生児だった。捨てられて中京区室町筋の古い織物問屋で育てられた千重子には、北山の中川集落に瓜二つの妹、苗子がいた。偶然、北山を訪れた千重子と友人は、苗子を見かける。
「千重子さん、あの人、よう似てる。千重子さんにそっくりやないの?」
そして、祇園祭宵山の夜、四条寺町の八坂神社の御旅所の前で七度まいりをしている娘を見つけると、それは、北山で見かけた娘だった。
「なに、お祈りやしたの?」
「姉の行方を知りとうて……。あんた、姉さんや。神さまのお引きあ合わせどす」
この小説は、二人の数奇な運命を描く一方で、人間の邂逅さえも引立て役となって京都の名所を観光案内のようにとりあげてゆく。平安神宮、西陣、大文字、南禅寺。
二つ目は、梶井基次郎の『檸檬』です。
退廃に退廃を重ねても、そこから澄んだ青空を抽出せずにはいられぬ人間がいる。旧制三高時代の梶井がそうだった。女遊びに耽り、泥酔して蕎麦屋の屋台をひっくり返し、甘栗屋の鍋に牛肉を投げこみ、借金苦で下宿を逃亡し、あげ句のはて無頼漢にビール瓶で左の頼を殴られる。
主人公「私」は、「得体の知れぬ塊」を胸に抱きながら寺町通を二条に向かって歩くうち、ある八百屋で「レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めた」ようなレモンを一個買う。
「私」はそれを秘めて河原町の丸善へ行き、美術書を積み上げた上にレモンを載せて、「私」は何喰わぬ顔で外へ出る。
以上がこの小説の全てである。たかだか文庫版7ページしかないこの作品が魅力を失わないのは、「私」の仕掛けた黄金色の時限爆弾が、京都「丸善」で今も秒針を刻んでいるからである。
三つ目は芥川龍之介の『羅生門』です。
『源氏物語』をはじめとする優美な貴族社会の栄華物語や、現代でも無数のテレビドラマの舞台となっているこの街は、また戦乱と死臭のなかをくぐり抜けても来ている。華やかな文化絵巻は、数えきれぬ行き倒れの腐臭に取りかこまれているのだ。
平安京の中央大通り朱雀大路の南端にあった羅生門を舞台に、一人の下人と、死骸の毛を抜く老婆の二人だけを登場人物とするこの小品は、そのようなもう一つの京都の姿をあざやかに描き出している。
都市のはずれという境界領域で、生と死かぎりぎりまで接し合った状況を突き抜けて、どこともなく駆け抜けて行く下人の姿は深い印象を残す。身ぐるみ剥ぎとられ、降りしきる雨と死体のなかに一人残される老婆の「つぶやくような、うめくような声」と共に。
現在の京都ははるかに膨れ上がってしまった。当時は境界だった羅生門跡は、今は街の中に呑み込まれている。二重閣の建築は全く残っておらず、ただ石碑だけが、その過去を語っている。
他にも、『ノルウエイの森』『四畳半神話大系』『鴨川ホルモー』『二十歳の原点』など、京都の匂い、味がする小説は枚挙に暇ない。思いが詰まった本を1冊、小脇に抱えて、京都の街へ颯爽と出かけてみては、いかがでしょうか。