おうばく通信
おうばく心理室コラム
2013年1月 5日 (土)
【おうばく心理室コラム/2013年1月】「人生の意味」について二言、三言
「人生の意味っていったい何なのでしょう?」
こんな質問をカウンセリングの中で受けることがあります。
私のような若輩者にはいささか大きすぎるテーマで、答えに窮してしまうのが常なのですが、こんなやりとりを何度か経験するなかで個人的に思うようになってきたことを、今回はズバリ書いてみたいと思います。
まず頭に浮かぶのは、「人生の意味」に究極の答えや正解などなく、それこそ人それぞれなんだろうなァということです。
たとえば街を歩いている人たちに「あなたにとって人生の意味はなんですか?」とインタビューしたら、返答はおそらく千差万別でしょう。スポーツで記録を出すこと、職場で業績をあげること、著書や作品を後世に残すこと、我が子を立派な人物に育て上げること、趣味の分野に打ち込むこと等々……。「やりがいを感じられること」と言い換えられるかもしれません。
そして同時に思うのです。同じ事柄であっても、それに意味を感じられるときもあれば、「こんなことしていったい何になるんだろう?」と虚しくなるときもある。少なくとも私自身はそうなのですが、皆さんはいかがでしょうか?
カウンセリングにこられる患者さんにしても、人生の意味を問うてこられるのは決まって調子が悪いときです。
「何をしても楽しくないし、意味が感じられないんです」
しかしその後、症状がよくなるにつれて、口をそろえて言ってくださいます。
「だんだん楽しく感じられるようになってきました」
「日々こういうことの積み重ねでいいのかな、と思えるようになってきました」
人生に意味があると感じられるか否かは、こころの調子のバロメータなのではないでしょうか? つまり、人生に意味が感じられないときは、ご自身が好ましくない状態にあることを「こころ」が知らせてくれている、こころの警報装置が鳴っているときなのではないかと。以前は楽しめたことが楽しめない、というのがうつ状態の典型的な症状であるのと同じく、人生に意味が感じられない、というのも、言ってみれば症状のようなものだと感じるのです。
好ましくない状態というのはおそらくさまざまで、自分の能力を発揮できていないとか、人とのつながりが感じられないとか、がんばっても周囲から評価されないとか、いろんな場合があることでしょう。
そもそも「意味」という言葉自体、実体の無い概念にすぎません。言葉には、もともと存在しないものを存在するかのように錯覚させる働きもあります。その代表例が「博愛」や「平等」といった耳触りのいい単語たちだと思っているのですが、それはさておき、「意味」なんかもそのひとつで、もともと自然界には存在せず、人類が勝手に作り出している代物です。それをあるとかないとか議論したり考えたりすること自体、考えてみればナンセンスで滑稽な話なのです。
ただ、「人生の意味」という概念に意味があるとするなら、それは先に述べたように、こころの状態のバロメータとしての意義が大きいのではないか。人生の意味が感じられないときには、ご自身の現状が自分にとって好ましくない状態であることを、心のアラームが知らせてくれているのです。
この構図は「痛み」と似ています。痛みは「不快」ではありますが「悪い」ものではなく、不快であることに意味があります。無痛覚症の患者さんは、痛みを感じないために身体が傷ついても自分では気づけず、深刻な傷や感染症で死に至ってしまうことも多いと聞きます。痛みを和らげるために自然と行う動作が、身体をよりよい状態へと導くための適応的な選択となっているわけです。
これと同じく、人生の意味が感じられないときは、その背後にどんな不全感があるのか、どんな行き詰まりを抱えているのかを整理して、よりよい生き方を見つけていくチャンスでもあるのです。
「こんなことしていて、いったい何の意味があるんだろう」と感じているときは、おそらく何らかの原因でこころが不調に陥っているときです。そんなときは、もしかするとカウンセリングも微力ながらお役に立てるかもしれません。
…と、最後は付け足しのような宣伝になってしまったところで、今回はこのあたりにて失礼いたします。こんなこと書いてて何になるんだろう、という気持ちも少しばかり抱えつつ(笑)。
文責:臨床心理士・名倉