おうばく通信
おうばく心理室コラム
2012年12月 5日 (水)
【おうばく心理室コラム/2012年12月】歩く百科事典はエピソード記憶の夢を見るか?
物知りな人のことを「歩く百科事典」などと称して敬う風潮があります。
いろんな情報を知っているというのは確かにすごいことですし、それらが生活のうえで役立つこともあるでしょう。ただ、その一方で、どれだけ立派な百科事典であってもDVD1枚に軽くおさまってしまいます。
私たちの脳の膨大な容量に比べれば、DVD1枚分の情報など問題にならないくらい微々たるものにすぎません。それなのにどうして、「歩く百科事典」がそんなにすごいことなのでしょうか?
こういった問題について考えるとき、私たちの「記憶」とは何かをある程度整理しておく必要があります。
私たちの記憶は、大きく分けると「短期記憶」と「長期記憶」に分類されます。
「短期記憶」は小容量の記憶が一時的に保持されるもので、たとえば聞いた電話番号をメモに書きとめるまでのあいだ数秒間覚えておく、などがこれにあたります(パソコンで言うとメモリーに相当)。
「長期記憶」は長い年月にわたって保持されるもので、さまざまな知識や思い出がこれにあたります(パソコンで言うとハードディスクに相当)。冒頭に述べた百科事典のような知識は、大別するとこの「長期記憶」に該当し、さまざまなデータがハードディスクの中にどんどん蓄積されていくようなタイプの記憶ということになります。
「長期記憶」はさらに、「エピソード記憶」と「意味記憶」に分けられます。
「エピソード記憶」は平たく言えば、一回きりの経験にまつわる個人的な思い出です。たとえば小学生のとき運動会で優勝したときのことや、北海道に旅行したときのことなどなど、思い返してみるとそのときの情景や気持ちが鮮やかによみがえってくることってありますよね? これがエピソード記憶です。
「意味記憶」は、何度も学習したり暗記したりして身につける一般的な知識や教養です。たとえば小学校のときに覚えた九九の計算や漢字の書き取り、あるいは大人になってから憶えたワインの銘柄などなど、いわゆる物知りハカセ的な情報。これが意味記憶です。
エピソード記憶と意味記憶、どちらのほうが大切だとか高尚だとかそういうわけでは決してなく、いずれも私たちにとって大切な記憶です。
私たちの祖先がまだ原始人であったころ、美味しい食べものにありつけたときの嬉しさや猛獣におそわれたときの恐ろしさを後になってもありありと思い出せたりするようエピソード記憶が発達し、食べられる植物とそうでない植物を覚えたり危険な動物を識別したりするために意味記憶が発達してきたのでしょう。
いずれも私たちの生存可能性を高めるために重要な役割に担う能力であったと考えられます。
ここで冒頭の疑問。ではなぜ、エピソード記憶が豊富な人よりも、意味記憶が豊富な人のほうが、歩く百科事典などと尊敬されるのでしょうか?
それはもしかすると、エピソード記憶よりも意味記憶のほうが、憶えるのに手間がかかるからかもしれません。エピソード記憶は体験したことがそのまま記憶に残るのに対して、意味記憶は体験から得られた情報を体系的に整理しながら憶え直さなくてはなりませんから。
また、エピソード記憶はあくまでも個人的な経験なので貯蔵量の多寡を競いにくい一方、意味記憶は一般的な知識なので量的な勝敗をつけやすい。このことも優劣の評価につながる一因となっているのかもしれません。学校教育で行なわれるペーパーテストは昔も今も、その大半が意味記憶を問う内容ですから。
ただ、これも冒頭で述べたように、百科事典の情報量などたかだかDVD1枚分にもすぎません。これはなぜかと言えば、一般的な知識である意味記憶は文字や図といったテキスト情報のかたちで残せるからです。物事はテキスト情報のかたちにすると情報量がグッと小さくなります。
それに対して私たちのエピソード記憶は、それぞれ1回きりの体験ながら、そのとき目で見て、耳で聞き、鼻で嗅ぎ、舌で味わい、肌で触れた五感の感覚と、そのときの感情とがあいまった実体験として記憶に残ります。これらはテキスト情報だけでは再現できないものです。「そのとき悲しかった」といった文字列で記述することはできますが、「悲しい」という言葉自体がそもそも共通体験としての私たちのエピソード記憶に依拠しているので、言葉単独でエピソードを記述することはできません。また、仮にエピソード記憶のうち視覚聴覚だけを擬似的に再現しようとした場合でさえ、のべ何年分もの動画映像ですから膨大なデータ量になることは必至です。
私たちが限られたテキスト情報からいろんな想像をしたり、心を動かされたりするのは、そのテキスト情報をきっかけに自身のエピソード記憶がよみがえるからです。たとえば「カメムシのにおい」という、たった16バイトのテキストを読んだだけで鼻をつまみたくなるのは、決してテキスト単独のおかげではなく、子どもの頃なにも知らずに捕まえた虫から異様な臭気が漂ってきて半泣きになった経験や、大人になってからうっかりカメムシを潰してしまってエラい目に遭った経験など、さまざまなエピソード記憶が喚起されるからでしょう。
こう考えると、もちろん意味記憶=知識も大切ですが、エピソード記憶=経験もそれ以上に大切なものだと感じます。「生まれか育ちか」ではなく「生まれは育ちを通じて」であることが定説になっているのになぞらえるなら、「意味記憶かエピソード記憶か」ではなく「意味記憶はエピソード記憶を通じて」豊かになる、と言えましょうか。
しかし、どんなことにも例外はあるものでして。生まれてから30歳で亡くなるまでほとんど家から出たことがなかったにもかかわらず、雄大な自然描写や狂おしいほどの愛憎表現を紡ぎだした『嵐ヶ丘』の著者、エミリー・ブロンテなどという人もいて、人間というのはつくづく一筋縄ではいかないものだなァと感嘆させられることしきりです。
…と言いつつ『嵐ヶ丘』を読んだことなど一度もない私こそ、エピソード記憶が貧困な知ったかぶり人間の典型と言えるかもしれませんが。
文責:臨床心理士・名倉