おうばく通信
おうばく心理室コラム
2012年10月 5日 (金)
【おうばく心理室コラム/2012年10月】障害をもって生まれる、ということ
先日なにげなくテレビを見ていたら、出生前診断の問題をあつかったドキュメンタリー番組をやっていて、つい見入ってしまいました。
お腹のなかの赤ちゃんに先天的な障害(ダウン症や身体障害など)があると判ったとき、どのような決断をすべきなのか。自らの意志で子どもの命を奪う「中絶」と、障害を抱えながら生きていく大変さを当人も周囲も引き受けなければならない「出産」とのあいだで葛藤し、揺れ動く両親とその家族。
もちろんいろんな考え方があって当然ですし、家庭のご事情もそれぞれ全く違いますから、これが正解という唯一無比の答えなどないでしょう。当事者のかたがたの心情を思うと、部外者があれこれと安直な議論をすること自体、慎重になるべきだと痛感します。
ただ、精神科に携わる仕事をしていると、先天性の障害について考えることが多いのも事実です(自閉症や発達障害、統合失調症など、精神科領域の疾病のいくつかは先天的な要因が大きい障害だと言われています)。そこで今回は、障害をもって生まれるということの意味について、ふだん感じているところを述べてみたいと思います。
私たち人類を含む生命の多くは、大局的には「適者生存」(自然淘汰)という法則にのっとって、膨大な遺伝子のプールの中で消滅と再生を続けています。人類の場合は男女間で遺伝子を交換しながら世代交代を繰り返しているわけですが、大きな環境変化にも対応できるように遺伝子のプールは多様性を保ち続ける形でプログラミングされており、その結果、どんな人にも一定の確率で突然変異が起こる仕組みになっていると言われています(我々は誰でも7~8個の病因遺伝子を潜在的に持っているという報告もあります)。
先天的に障害を持った人が一定の確率で生まれてくるのは、生存と順応のための「保険」と言い換えることができるかもしれません。
先天的障害についての考え方として個人的に印象に残っているのが、柳澤桂子さんの書かれた次のような一節です(『ヒトゲノムとあなた』より抜粋)。
私たちは豊かな遺伝子プールの中から46本の染色体を与えられて、この世に生まれてきます。その染色体を自分で選ぶことはできません。誰が病気の染色体を選ばされてしまうか、また、発育の途上で染色体に突然変異が起こるかどうかは、まったくのチャンス(偶然)の問題です。人類では、重い障害児の生まれる確率は3~5%です。(中略)
障害を持って生まれた人は、あるいは「私」にあたえられたかもしれない病気の遺伝子を、「私」の代わりに受け取ってくれた人です。なぜ「私」にその遺伝子があたえられないで、あの方が受け取ってくださったのでしょう。それは誰も選ぶことのできない偶然の結果なのです。遺伝子というのはそういうものなのです。
このように考えると、先天的な障害を持って生まれた人々に対して、損な役回りを引き受けてくれたことへの感謝の気持ちが湧いてこないでしょうか? 身近な例にたとえるなら、小学生の頃、誰もやりたくないけれどクラスに一人は選出される遠足委員長をクジで引き当てた級友に対して抱いたような気持ちというか……。
そしてもうひとつ、大切な側面があると考えています。それは、障害を持った人がいるとその周りの人たちが努力をする、工夫をする。その結果、周りの人たちの能力や思いやりの気持ちが育まれ、集団として一層成熟するというポジティブな影響があるように感じるのです。
世の中から差別や偏見をなくすのは難しいかもしれませんし、心の奥底に存在する差別や偏見の気持ちにフタをして「ないこと」にしてしまうのはさらに恐ろしいことです。そもそも生命という存在自体が利己的に進化・発展してきたものであり、その極致に位置する人類はだからこそ、特有の心の闇やグロテスクさを兼ね備えているという一面もあります。ただ、そうであっても、自分のなかにある差別や偏見の気持ちを自覚したうえで、障害という問題に目をそむけずに向き合うことが、私たちの進歩のためには大切だと思っています。
動物界であれば自然の法則でスポイルされてしまう「障害」個体であるのに、なぜ人類だけがそうあってはいけないのか? それの答えは、けっして安易な感情論によってのみ支えられているわけではなく、先天性障害とは誰かが必ず選ばれる役回りであることや、そういった知識を得るだけの知性を私たちが持つに至ったこと、障害を持った人たちが周囲にポジティブな影響をもたらすこと等、たくさんの側面があるのではないでしょうか。
文責:臨床心理士・名倉