おうばく通信
おうばく心理室コラム
2012年4月 5日 (木)
【おうばく心理室コラム/2012年4月】関与しながらの観察
「関与しながらの観察」
前回のコラムの内容について、誤解があるといけないので補足しておきます。
私たちスタッフは舞台裏であるスタッフルームで、患者さんの悪口ばかり言っているわけでは決してありません。むしろ、患者さんのがんばっている姿や、それでも乗り越えられない困難をどうしたらいいかなどについて相談し合っていることのほうが圧倒的に多いと思います。また、話す相手についても、守秘義務を遵守しなければならない立場にある同僚にしか話しません(当法人外の人に患者さんの情報を話せば、たとえ同じ職種同士であっても守秘義務違反となります)。
ただ、場合によっては、愚痴半分に患者さんの悪口をこぼしてしまうこともあるし、そういう清濁を含めてスタッフ間で話し合える関係こそが、治療上も大切だと感じていることを述べたかったのです。
…というわけで今回の本題、「関与しながらの観察」。
精神医学を対人関係の学としてとらえた精神科医サリヴァンが、精神療法における治療者‐患者間のあるべき関係性として指摘した言葉です。『心理臨床大事典』(培風館刊)から抜粋すると、次のような意味になります。
治療者は治療状況の中では、治療者‐患者という人間関係の中に、自ら関与しつつ観察する特殊な立場にある(中略) これを「関与しながらの観察」と呼んだ。つまり、精神医学的現象は、自然現象のような純客観的事象ではなく、必ず観察者である治療者が関与し、それに影響を与えると同時に、それによって影響を与えられてもいるのだというのである。
いやー、事典に書いてあることはやはり小難しいですねえ。なので、ここではひとつ、この言葉が意味するところを単純化して説明してみたいと思います(したがって両者間の交互作用など深い部分の説明は割愛させていただきます)。
心の悩みを抱える患者さんがカウンセリングに来てくださった状況を、「沼でおぼれかけている人が助けを求めている」という場面に例えて考えてみます。この場合、救助者側のスタンスは、
1. 救助者自ら沼に飛び込んで助けようとする
2. 救助者は安全な陸地にいながら、助かる方法をおぼれている人に指示する
の2つに大別できます。冒頭で述べた「関与しながらの観察」という見地に立てば、「1」の関わりが「関与」、「2」の関わりが「観察」になるでしょうか。
ただ、いずれのタイプにも長所と短所があります。
まず、「1」の飛び込みタイプ(=関与タイプ)。おぼれている人からすれば、救助者が飛び込んでくれたら安心できるし、親身になってくれているんだという心強さもある。その一方で、救助者自身が沼に入ることで、状況を客観的に把握できなくなるかもしれないし、共におぼれて沈んでしまうかもしれません。
次に、「2」の陸地から指示タイプ(=観察タイプ)。おぼれている人は状況が大局的に把握できなくなっているから、陸地からの状況を客観的に見ながら、適切な指示を出すことは合理的なことです。その一方で、救助者が離れた陸地にいることで、おぼれている人は心細さを感じるかもしれないし、救助者自身も沼の中の状況やおぼれている人の息づかいを知ることはできません。
いずれのタイプも絶対的にどちらが善い悪いではなく、ケース・バイ・ケースという面もあるのですが、治療者に求められる「関与しながらの観察」の観点からすると、そのどちらでもない第3の視点が大切になってきます。
3.片足は陸地に結わえながら、片足は沼地に踏み入れて、助かる方法をおぼれている人とともに模索する
こうすれば、おぼれている人と沼の中で手をとりあうこともできるし、それに対する相手の反応も確認できる。と同時に、いつでも陸地の見地から大局的に状況を把握し直せる。おぼれている人にとっても安心感があるし、それでいて共におぼれて沈んでしまうこともない。…これは言うは易し行うは難しなのですが、面接場面でこういう感覚を忘れないことは大切なことだと常々考えています。
このような事情から、わたしたちは原則として、実生活での友人・知人のカウンセリングは行いません。万が一知らずに偶然やってきても、事情を説明して、次回からは他のカウンセラーに担当を移します。
また、これも原則として、患者さんとは私生活での交流を持ちません。第2回のコラムにも書きましたが、友人・知人という立場だと身近すぎて、相手に対して「こうあるべきだ」という価値判断や「こうあってほしい」という希望的観測が入りこんでしまい、冷静な判断、治療的な判断を下せなくなりやすいのです。
正直言うと、この患者さんと実生活での友人だったら楽しいだろうなあ、という方もしばしばいらっしゃいます。しかし、カウンセリングの場で出会ってしまえば友人にはなれない、友人として出会ってしまえばカウンセリングの場での相談には乗れない。ここがカウンセラーという仕事の皮肉なところかもしれないなあと、時折思う昨今です。
文責:臨床心理士・名倉