おうばく通信
BUCきょうと機関誌『ばっくる』連載エッセイ
2009年7月 1日 (水)
月刊きょうと/母の遺言(2009年7月)
今回は利用者の弐番さん(男性)に、お母様の遺言について書いていただきました。
母ががんを患ったのは平成一五年七月末。当時両親は町の公民館管理人という職業上、住み込みで働いており、私たち姉弟とは別居していた。風邪をひいてもプラスチックの破片が足に刺さってひどく出血しても断固病院には行きたがらない母だったが、嘔吐を繰り返し夜も眠れない状態だったため、父に後押しされ躊躇しながらも病院で診察してもらった。その結果、胆のう炎と診断され入院を余儀なくされた。
同年八月に当時姉(次女)が看護師として勤める病院へ転院。翌月はじめに手術が行われた。腹部切開にて大量出血、膿が腸にまで達しており手術は長時間に及んだ。またその手術でがん細胞が発見され、胆のうがんである事がわかった。闘病生活を経て、お腹に大きな傷を残し、同年一一月に退院した。
しばらくは公民館の管理人職は父一人で行い、母は家事のみの生活が続いていたが、翌年平成一六年一一月にがんが再発。もう働ける状況でもなく、父とともに退職し、治療に専念した。がん細胞は動脈付近にも転移しており、除去はできなかった。それからは抗がん剤投与による治療を行ってきた。
それからしばらく通院して、姉二人が嫁ぐ頃には家事などをこなすまで回復し、一時は完治したかのように伺えた。そのころの私といえば、仕事がきつく精神的にも参っていた状態だった気がする。両親とはろくに口も利かず、起床→仕事→帰宅後即飯即風呂→自部屋籠もり→就寝、のサイクルがずっと続いていた。口を利かなかった理由は取るに足らない些細なものだが、両親の力に頼らずとも自力で生活できるようにと、実にくだらない精一杯の抵抗だったのだろう。黙殺し続けた事が母のがん再発の原因だったとしたら目も当てられないけれども・・・。その後私はうつ病で休職するようになった。
母が亡くなる数日前、私たち家族は連日のように病室へ見舞いに行った。平成二十年夏のことだった。入院が決まった時にはガン細胞が体中に転移していて、とうとう余命宣告までされた。
同年十月、私のうつ病が寛解し復職して間もないころ、復職した旨を母に伝えると、苦しみを耐えながらも一言「よかった」と言ってくれた。一言だけでも母に喜んでもらって、このうえない嬉しさがこみ上げてきた。いよいよ死が近づいてきた前日に、大部屋からナースステーションに最も近い個室へとベッドを移動させられた。
どんどん弱っていく母の手を家族みんなで握りしめ、頑張っていこうと励ましていた。そして母は父に向けてこう言った。
「まっすぐ育ててくれて、ありがとう」
育てたとい うのは三人の子どもの事であろうと思うのだが、私はそれを聞いたときに一気に感情が高ぶり、その部屋から逃げるように飛び出した。そして病院の駐車場にとめていた自分の車の中へと駆け込み、堪えていた涙を出し、ひたすら泣き続けていた。
母が亡くなってから四十九日も納骨も終わり、母の私物もほとんど処分した。しかし母の遺言は昨日あったことのように鮮明に覚えている。今思えばあの時、母にいいところを見せようとして無理して復職していたような気がする。再び休職した今、きっと天国にいる母は嘆いている事だろう。今度こそ自分のペースで焦らずゆっくりと復職したいものだ。