おうばく通信
おうばく心理室コラム
2019年8月 5日 (月)
【おうばく心理室コラム/2019年8月】「野生イノシシのジャンクフード中毒に思うこと」
テレビのニュース番組で先日、「市街地に出没する野生イノシシが増加している」という特集が組まれているのを見ました。
私たち人間が森林を切り開いて住宅にした結果、住まいを追われたイノシシが市街地に出てきたという要因も前提としてあるのですが、それだけではなく、私たち人間が作る「美味しすぎる食料」が市街地に捨てられている要因も大きいというのです。
イノシシたちは本来、森林に落ちているドングリや生えている草木、根っこなどを食べて生活している動物です。しかし人間が暮らす市街地に出てみると、そこには
・えも言われぬフルーティーな匂いを放つキャンディーの包み紙
・ごはんや唐揚げなどカロリー満点の残飯が詰まったコンビニ弁当
・とろけるように甘いジュースの飲み残し
などなどが無造作に捨てられていて、口にしてみると実際、自然界では決して味わえないような甘さ、旨さが詰まっていてイノシシたちは大興奮!! こういった人間の食物をいちど味わってしまったイノシシは、もう森林に戻ろうとはせず、ひたすら市街地をさまよい続けてしまうといいます。
さらに、こういったイノシシは高カロリーな残飯を食べ続ける結果、自然界ではありえないくらい太って巨大化し、私たち人間にとってさらに脅威的な存在になっているんだとか。
この番組を見ていて改めて思ったのは、イノシシと人類の共存という本来の課題に加えて、「いま私たちが口にしている食物は美味しすぎる」ということです。
私たち人類も、本来はイノシシと似たような食生活を送っていたはずです(イノシシよりも狩猟スキルに勝っているので、彼らよりも動物性たんぱく質は多く摂れたかもしれませんが)。調味料も発達していなかった時代であれば、今で言えば「蒸しゴボウ、千切りキャベツ、茹でた豚肉、柿」みたいな感じの食卓だったと思われます。それも、限られた量をみんなで分け合うわけですから、満腹には程遠かったことでしょう。
それが今ではどうでしょうか。街に出ればコンビニやファストフードが軒を連ね、ハンバーガーにフライドポテト、アップルパイ、フランクフルト、おにぎり、サンドウィッチ、かつ丼、ラーメン、チョコレートパフェ、クレープ、ピザまん、シュークリーム……。ありとあらゆる「美味しすぎる食べもの」が何の苦労も無しに数百円で手に入ってしまいます。
原始時代の私たちは、必死で駆け回って小動物を狩り、歩き回ってゴボウを掘り出すような日々の中、なんとか糊口をしのいでいたと思われます。このような暮らしに最適化してきた私たちの心身は、化石燃料の大量消費に支えられた高エネルギーな生活~歩いたり走ったりしなくてもクルマに乗っていれば移動でき、買い物もインターネットでクリックするだけで自宅に届き、夜になっても電気で明るく過ごせて、ハイカロリーな食事がいつでも手に入る~に置かれると、肥満や生活習慣病、気分変調など多様な不適応を呈しやすくなっているのでしょう。
人間が作ったコンビニ弁当に興奮して中毒状態となり、森に帰れなくなって肥え続けた挙句に捕獲されるイノシシは、言ってみれば私たち自身の縮図です。もちろん、安全な住居や清潔なインフラ、高度な医療など現代社会の恩恵を受けているからこそ、私たちはこれだけ多くが地球上で暮らせているわけで、文明の進歩を一概に否定するつもりは決してありません。
ただ、このような時代だからこそ、街をさまようイノシシのようにならないための自己意識が強く求められるように感じています。「意識高い系」と言うと、なんだかお高くとまっているイヤな人というイメージがあるかもしれませんが(笑)、少なくとも自分の身を守る意識は忘れないようにしたいものです。
かくいう私自身はと言えば、スーパーの刺身は半額セール狙いだったり、台所のゴミを捨て忘れては異臭に慌てたりという、「意識高い系」には程遠いモッサリしたライフスタイルで日々を過ごしていますが、加工食品(ソーセージやカップ麺、パン、ポテトチップス、ジュースなど)は控えて、自然本来の姿が見える食材(魚、肉、野菜、果物、ナッツ類など)を買うよう心がけています。
自然の姿のままの食品は、たくさん食べると次第に「もういいや」となって自ずと手が止まります。たとえば「生キャベツ」「茹でたゴボウ」「蒸し鶏」の3品が食べ放題だとしても、ほとんどの人がある程度食べたらイヤになって箸を置くはずです。
一方、「ポテトチップス」「タコ焼き」「ショートケーキ」の3品が食べ放題だとしたら、おそらく多くの人がお腹ポンポンになるまで食べすぎてしまうのではないでしょうか。
これが加工食品のちょっとコワいところです。たんぱく質は必要量を摂取すると満足して、それ以上は食べたくなくなるブレーキ機能が働くのに対して、炭水化物は必要量を摂取しても飽き足りず、貯蔵に回そうとしてブレーキ機能が働かず食べすぎてしまうというメカニズムも指摘されていますが、加工食品はさまざまな調味料によって美味しすぎることも過食を招く原因となっています。
もちろん私自身、ときには加工食品をほお張ることもあります。ふだん質素な食事が中心なので、お土産にいただいたスナック菓子などをたまに食べると、その強烈な旨味に恍惚となったりもします。ただ、それと同時に、「こんなに旨いものって自然界にはそう無いだろうし、クセになって当然だよなあ」と考えるようにしています。
また、美味しい食事をいただくときは、頭の片隅で「これに必要な材料を自力で得ようとしたらどれだけ大変か」に思いを馳せるようにしています。とんこつラーメン一杯にしても、「畑を耕して小麦を栽培して、ネギを植えて、豚を捕獲して、薪割って火を起こして……」と考えると、本来なら多大な労力が要される食べ物を自分が口にしていることを実感できて、よりありがたく美味しく食べられるからです。
こういった問題の背景要因には、企業による加工食品の大量生産・販売という商業戦略も存在すると思われますが、その発端は、より美味しい食べもの(=本来はより栄養のある食べもの)を追求する私たちの知恵にあったはずです。
肉食獣たちが食べ残した動物の骨を石器で割って骨髄をすすったり、そのままでは不味い木の実をあく抜きして食べたり、魚を干すことで保存性を高めながら美味しく食べたりと、その創意工夫は枚挙にいとまがありませんし、そうすることで私たちは厳しい自然界で勢力を広げてきたのでしょう。
ただ、幸か不幸か私たち人類には知恵がありすぎました。そこからさらに一線を越えて化学調味料を発明し、化石燃料の消費を伴う大量農業生産と歩調を合わせながら、スナック菓子などの安くて美味しい加工食品を効率よく生産・販売できるようになります。そして結果的に、本能のままに食べ続けると種々の疾患に陥りやすいという危険な環境を招いているのです。
私たち人間はイノシシとは違って、自らが作り出した加工食品の功罪を理解して、自らの行動を律することができます。
リスクを承知でお菓子などを好きなだけほお張って過ごすのも個人の自由ですが、私自身はリスクを低くして心身ともに健康を維持できる可能性を高めたいと考えています。言い換えると、「長期的なリスクを承知で短期的な甘美を選ぶ」か「長期的なリスクを避けて短期的な地味を選ぶ」かになりますが、地味な食事も慣れると美味しく感じられるように、次第と「長期的なリスクも避けつつ短期的にもそこそこ甘美」な感覚になってきます。
これ以上書きすぎると、自然食品以外は食べちゃダメ! 的な宗教じみた原理主義になりそうなのでこのあたりで筆をおきたいと思いますが(笑)、皆さまならどちらのほうを選ばれますか?
文責:臨床心理士・名倉