おうばく通信
おうばく心理室コラム
2019年7月 5日 (金)
【おうばく心理室コラム/2019年7月】「なぜ山に登るのか? について考察してみる」
いよいよ夏本番となってきました。とりわけ京都の夏は蒸し暑く、イヤな季節がやってきたとお感じの向きも多いかと思います。「寒いのは着込めばいいけれど、暑いのはこれ以上脱げない!」という主張もよく耳にするようになります(笑)。
個人的には夏はそれほど嫌いではありません。たしかに暑くて不快なことも多くありますが、ハイキングや山登りがわりと好きで夏はよいシーズンだからです。
冬場~春先は雪があって入山できませんし(冬山を登るだけの技術も覚悟もないので…)、秋は涼しくて紅葉もキレイなのですが台風の心配をしなくてはいけません。
その点、夏場は安定して登れますし、標高が上がるにつれて気温が下がるので涼しく過ごせるメリットもあります。
…というようなことを話すと、同好の人たちには分かってもらえることが多い一方、登山になど興味のない人たちからは「なぜ山なんかに登るのが理解できない」「しんどいだけじゃないの?」と冷たくあしらわれることもあります。
「なぜ山に登るのか?」という問いに対しては、やはり「そこに山があるから」と答えるのが王道なのでしょうか。しかし考えてみると、本当のところはどうなのだろうという疑問がよぎります。
他のスポーツに置き換えてみると、たとえば「なぜ卓球をするのか?」→「そこに卓球台とピンポン玉があるから」と言われるとおかしく感じます。卓球は自らの意志で始める自発的な行為であるにもかかわらず、「そこにあるから」という偶然的な理由に帰されるとギャップが生じるのです(まァ、温泉旅館に行った折などはそういうこともあるでしょうけれど)。
他方、たとえば「なぜ段差でつまずくのか?」→「そこに段差があるから」と言われると、これもおかしく感じます。段差につまずくのは自分の意志とは関係のない偶然的な行為であり、まさしく段差が「そこにあるから」つまずくわけですが、あまりにも当たり前すぎて、わざわざ言葉にすると逆におかしいのです。
こう考えると、登山は自ら出向く自発的な行動でありながら、「そこにあるから」と偶然的な理由に帰されても世間に受け入れられているわけで、なんでだろうと余計に思ってしまいます。山々は遠くからでも見えるのでその存在は知っていながらも、今すぐには登る踏ん切りがつかず、いつか挑戦してやるぞという気持ちが募った結果こういう表現になったのでしょうか。
おそらくのところ、こういった言葉には「山に登るのに理屈やゴタクは要らねえんだよ!」という山男的な心性も込められているのでしょう。ただ、自分のような一般人からすると、それだけで済ませられると、ちょっと強引だよなァと思ってしまうのも事実です。
そこで今回は、なぜ自分が山に登るのかについて、心理学的知見もまじえながら少し考えてみたいと思います。
私の場合、山に登る最大の理由は、「登ると上にあがる」という単純だけれども確かな自己効力感です。日常生活では努力がそのまま結果につながるとは限りませんが、山は登れば登るほど確実に標高が高くなっていくので実に嬉しい(笑)。とりわけ山頂に到着したときは、「がんばってたどり着いた!」という達成感、「つらい登りは終わりだ!」という解放感、そして「眼下の広がるキレイな風景!」という満足感があいまって、大きな喜びが得られるものです。
キレイな風景と関連しますが、私たちは見晴らしのよい場所を「あたりに外敵がひそんでおらず安全だ」という認識から本能的に好むという性質を持っていると言われます。したがって、高い場所に登りたくなるのは、見晴らしのよい場所に行こうとする太古の時代からの習性なのかもしれません。
加えるなら、仲間と何人かで登ると体験を共有でき、連帯意識が生まれるのもメリットであるように思います。同じ目的(=たとえば山頂を目指す)を持って行動すると、普段よりも一致団結して協力し合える傾向を私たちは持っているのです。
さらに、自然の中での活動そのものが良い気分転換になること、そして運動することによって体調が良くなることもメリットとしてモチベーションになっています。
そんなわけで、「なぜ山に登るのか?」と問われたら今後は、「がんばって自力で頂上に登ったという自己効力感と、頂上からの見晴らしによる本能的安全感、仲間との目標共有による連帯感、そして運動による気分転換と健康効果」と即答することができそうです。
……うーん、こんな風に言われたら、正直ちょっとイヤかも(笑)。やっぱり「そこに山があるから」くらいのほうが、素朴かつロマンがあっていいのかもしれません。長く生き続けている言葉には相応の意味があるってことですかねえ。
文責:臨床心理士・名倉