おうばく通信
BUCきょうと機関誌『ばっくる』連載エッセイ
2015年9月 1日 (火)
月刊きょうと/「認知療法を学んで」(2015年9月)
今回は利用者のH・Yさん(男性)に、認知療法を学んで感じたことについて書いて頂きました。
日本で、「あなたの宗教は何ですか」と訊かれて、はっきりと答えることのできる人は、そう多くはないと思います。海外へ行くと、自分の宗教をはっきりと答えることができない人は信用されないとさえ言われます。十把一絡げに語ることはできませんが、日本では、お正月は神社に初詣、結婚式は教会で、お葬式は仏式で、などといろいろな宗教儀式が日常に混在している場合が多いようです。そうしたあり方は、海外の人から見れば、とても不思議なようです。そこが日本人のいいところでもあり、悪いところでもあるようです。少し悪く言えば「あいまい」、よく言えば、「寛容な精神」が日本人のいいところであるとも言えます。現在は、平和を考える時に、その寛容さが注目されているようですが、むらみやたらに、多様なものを認めるのではなく、私はこう思いますという信念があった上で、多様なあり方を認めていくことが大事かなと思います。
私は、もし人に尋ねられたら、「私は仏教徒です」と言えるのですが、日本では、宗教というと、勧誘されるとか、寄付を募られるとか、あまりいい印象を持たれないことがあるので、私は、言う機会もないのに、あえて人に対して自ら積極的に、私は仏教徒です、ということには憚りを感じます。
しかし今回、BUCの講座の中に「仏教的なもの」を感じ、仏教と自分自身を見直しました。「仏教的なもの」と言ったのは、実は、仏教にはさまざまな宗派があって、説かれる教えには違いがあります。私が感じた「仏教的なもの」というのは、一つの宗派にとらわれない、仏教の開祖である釈尊が語っていた原始的な考え方です。
BUCの講座で学んだことですが、さまざまな身体的・肉体的ストレス反応の源となるものには、外部ストレッサーと内部ストレッサーとがあるそうです。さまざまな刺激や出来事が外部ストレッサーで、性格・気質、考え方、価値観などが内部ストレッサーといわれるものです。例えば、友人と待ち合わせしていたのに、友人が来なかったとき、腹立たしく思ったり、悲しく思ったりします。その時に、腹を立てたり、悲しくなったりするのは、友人が来なかったという事実によるのではなく、「すっぽかされた・軽んじられた」といった、その出来事を受け止めた本人の考え方によると言います。つまり、出来事そのものが感情を起こすのではなく、その出来事をどう受け取っているかが、感情を左右し、それがストレスの源になっているというのです。
自宅で何気なく開いた本に、仏教の開祖釈尊の言葉として、次のような一節がありました。 「〈私はないがしろにされたのだ〉という思い。それを相手に知らしめてやりたいという心。それが怒り怨みを手放すことを躊躇させるのである。じつに人は、原因となった事柄や相手でなくて、心の内の怒り怨みによって苦しむのだ」とありました。どこまでも自分自身の内面を静かに見つめていったのが仏教の出発点でした。厳密には認知療法と仏教は目的は異なりますが、認知療法を学んでいて、「仏教的なものの考え方」にあらためて気づかされました。また、BUCのプログラム中に導入されているマインドフルネスという瞑想法は禅にヒントを得て開発されたもので、最近テレビで海外の精神科医によって紹介されていました。再発防止に有効と言われ、心と体の健康を回復・維持することができます。