おうばく通信
おうばく心理室コラム
2015年6月 5日 (金)
【おうばく心理室コラム/2015年6月】酔客に対する見事な切り返し
私がときどきお邪魔している、近所のとある蕎麦屋さんにてのエピソードです。
五十歳くらいの品の良いご主人が切り盛りしてらっしゃるこの蕎麦屋さん、手打ちの美味しい蕎麦と、いくつかの一品、そしてご自身の選による美酒がいただけるうえにお値段も決して高くないとあって、いつも常連客でにぎっているひそかな名店なのですが。
先日、私が蕎麦がきを肴に地酒をチビチビいただいていたところ、「お酒もう一杯お願い」と注文した隣のカウンター席の酔客――かなり長っ尻してすっかり出来上がっている体の五十歳過ぎ男性――に、ご主人が見事な切り返しで応じておられて、さすが接客のプロ! といたく感心したのでした。
ちなみにどんなやりとりだったかというと、
「お酒もう一杯お願い」
――今夜はこの辺にしてくださいませんか。
「なんでだよー。もう一杯だけ!」
――尊敬する先輩が酔いつぶれるのを見るのは私もつらいんです。
「え? うーん、さよか……」
――今日はかなりお飲みになってますし、また来てくださるのを楽しみにしてますんで。
「そう言うんやったら今日はこのへんにしとこか? また今度な」
――ありがとうございます。またどうぞ、よろしゅうお願いします。
どうやら五十歳過ぎの酔客はご主人の学生時代からの先輩にあたるようで、店に来ては酔いつぶれるという繰り返しが過去に何度かあったのでしょう。 ご主人としては、先輩が酔いつぶれて帰れなくなってしまうような事態は避けたいけれど、先輩だから無礼なことは言えないし、まわりのお客さんからの目もあるから口論もできない。こんな板ばさみの中、先輩の気分も害さずまわりのお客さんにも嫌な気分を抱かせないスマートな断りかたに、思わず「お見事!」とエールを送りたくなったという次第です。
このご主人の切り返し、なにがどう良かったのか? つい心理学の立場から考えてしまうのは職業病かもしれませんが、よければもうしばらくお付き合いください。
まず言えるのは、YouメッセージではなくIメッセージを一貫して使い続けている点です。「これ以上飲んだらまた帰れなくなりますよ」「お体も悪くしますよ」といった言葉は、「あなたは○○です」という図式のYouメッセージなので、相手にとってはお節介に感じられ、「大丈夫だからほっといてくれ!」的な逆上につながりかねません。
一方、「先輩が酔いつぶれるのを見るのは私もつらいんです」との言葉は、相手を非難するのではなく「私は○○です」という図式のIメッセージなので、相手としてもそのまま受け止めるしかありません。そんなことはない! と反論しようにも、相手の気持ちであるだけに反論しようがないのです。
次に言えるのは、「尊敬する先輩が~」と相手を持ち上げている点です。以前に当コラムで「フット・イン・ザ・ドア」という技法を紹介した通り、私たちは一貫性のある人物でありたい、一貫性のある人物だと見られたいと思っているので、後輩から「尊敬する先輩」というイメージをいったん持たれてしまうと、それを崩したくない気持ちが出てくるのです。
これ以上お酒を飲んで酔いつぶれると「尊敬する先輩」というイメージを壊してしまうという葛藤が、ほどほどのお酒でやめておくための大きな抑止力になる。見栄っ張りな先輩の心を上手に使った好例だと言えるでしょう。
私自身もご主人のような気の利いたセリフを言ってみたいものですが、どちらかというと言われる側であることに今さらながら気づきました。
文責:臨床心理士・名倉