おうばく通信
おうばく心理室コラム
2013年12月 5日 (木)
【おうばく心理室コラム/2013年12月】どうせまた散らかるんだから、掃除したって同じ?
「どうせまた散らかるんだから、掃除したって同じだよ」
こんな風に言って、ちっとも掃除しない人を時折見かけます。実は筆者もその一人で同僚からヒンシュクを買っているんですが、こういう考え方は基本的に正しくありません。
なぜなら手段と目的とが混同されているから。掃除というのは本来、「キレイな空間で快適な時間を過ごす」ための手段であるにもかかわらず、掃除そのものが目的になっているから、「掃除してもどうせまた散らかるから無意味だ」という論法になってしまうわけです。
このような考えかたを敷衍させるとどうなるでしょう?
・どうせすぐ伸びるんだから、散髪なんかしたって同じだよ
・どうせすぐお腹すくんだから、食べなくたって同じだよ
・どうせ皆いつか死ぬんだから、人生なにやったって同じだよ
いかに虚無的な考えかたになってしまうか、お分かりいただけるでしょうか。
一方で過去の賢人にも、このような虚無的な考えかたの片鱗がみられます。たとえばパスカルの『パンセ』には、次のようなくだりが記されています。
「われわれは絶壁が見えないようにするために、何か目を遮るものを前方に置いた後、安心して絶壁のほうへ走っているのである」
絶壁=「死」、つまり私たちは、生まれついた瞬間からみんな、死という絶壁めがけて走り始めるのだけれど、そんな冷徹な事実を直視しないで済むよう、さまざまな「目を遮るもの」、すなわち仕事や家庭、趣味などの目隠しを次々に作り出すことによって、死に向かって心穏やかに突進していけるのだというわけです。
さらにパスカルは、死そのものは訪れたらその瞬間人生が終わるのだから本当は恐くないはずなのに、私たち人間は高度な知性と引き換えに、死について考えたり想像したりする能力を会得してしまったがために、「死について考える」という苦しみと対峙するハメになってしまったのだと主張します。
しかし、だからこそ自らの能力を使って、上手に目隠しを作り出していくことが大切であるように思います。
冒頭の掃除の話に立ち戻ると、いくら部屋を掃除したって確かにまた散らかるし、自分がこの世を去れば部屋も家屋もいずれ取り壊されることでしょう。こんなエントロピー法則に対して、束の間の抵抗を試みることに果たして意味があるのかどうか?
掃除の最終目的は「部屋をキレイにすること」ではなく、「キレイな部屋で心地よい時間を過ごすこと」でした。たとえ束の間であっても、キレイな部屋で心地よい時間を楽しむことができたなら、ちゃんと目的を達成したことになります。その瞬間瞬間の感覚は刹那でありながら、時間軸に対して垂直に立つという意味では永遠であると見ることもできるのです。
言い換えれば、パスカルの述べる「何か目を遮るもの」とは、今この瞬間というプロセス自体に目を向け、そのこと自体に意味を見いだそうとする姿勢をも含めたものではないでしょうか。人が何かに熱中するのは、死という絶壁から目をそらすためかもしれないけれど、熱中している時間自体に意味を感じられるとしたら、それで十分ではないかとも思うのです。
旅行なんかも、出発するときから、最終日に訪れるであろう寂しさにばかり思いを馳せ続けていたら、せっかくの旅の楽しさが台無しになることでしょう。旅が終わるときのことは一旦さておき、眼前の風景や料理を満喫するほうがずっと有意義であるのは明らかです。
私たち人間は、豊かな想像能力やそれに伴う長期的な予測能力を獲得しました。その代償として、自らの死について考えたり想像したりする苦しみをも手に入れました。そこで大切なのは、先のことばかり見ようとする自らの習性をうまく操ること~、上手な「目隠し」を作り出す力と、その眼前の目隠しに意味を見いだせる感受性を養う力ではないでしょうか。
そんなわけで、こんな箸にも棒にもかからないコラムを書くことも、吹けば飛ぶような「目隠し」ながら、少なくとも私にとっては意味のあることだったりします。それよりまず掃除をしなさい! と言われそうですが、掃除にはさらなる「目隠し」をさせていただくということで…。
文責:臨床心理士・名倉