おうばく通信
おうばく心理室コラム
2012年6月 5日 (火)
【おうばく心理室コラム/2012年6月】「カメムシとざるそば」~記憶の不思議
先日久しぶりに自宅を掃除していたら、寝室の枕元に「カメムシとざるそば」と書きなぐったメモ用紙が落ちているのを見つけました。
どうみても自分の筆跡ですが、寝ぼけて書いたのか夢うつつで書いたのか、とにかく書いた記憶がまったくありません。このメモがいったい何を意味しているのかも皆目分からないけれど、もしかすると昔の自分が、将来の自分に向けて、極めて重要な警告を発していたのかもしれない。
このように考え始めると、だんだん居ても立ってもいられなくなってきて、かといって必死になれば思い出せるかというとそうでもなく、いよいよ進退窮まって部屋の掃除どころではなくなってしまったのでした。
そこでふと頭に浮かんだのが、「気分一致効果」と「気分状態依存効果」という心理学の知見です。
気分一致効果は、「人はそのときの気分状態に一致するような情報を、記憶にとどめたり、後から思い出したりしやすい」という現象を指します。
たとえば同じカメムシを目の前にした場合でも、明るい気分のときは、そのカメムシのいいところ(綺麗な色合いなど)が記憶に残りやすかったり、カメムシにまつわる楽しかったエピソード(かつて恋人に頼まれてカメムシを退治したら惚れ直されたとか)を思い出しやすかったりします。一方、暗い気分のときは、そのカメムシの嫌なところ(臭いニオイなど)が記憶に残りやすかったり、カメムシにまつわる悲しいエピソード(小学生の頃いじめられて机にカメムシを入れられた経験とか)を思い出しやすかったりするというわけです。
気分状態依存効果は、「特定の気分のときに記憶された情報は、それと同じ気分状態のときに思い出されやすい」という現象を指します。
たとえば同じカメムシの名前をド忘れした場合でも、それがかつて明るい気分のときに名前を覚えたカメムシであれば、明るい気分のときのほうが名前を思い出しやすく、暗い気分のときは思い出しにくい。はたまた、カメムシに囲まれながら暗記した試験問題は、その後もカメムシに囲まれているときのほうが思い出しやすいというわけです。
ここで冒頭のメモについて考察してみると、メモ書きしたときの私はおそらく寝ぼけていたと推測されます。そのとき明るい気分だったのか暗い気分だったのかは分からないながら、そのときと同じ状態(=寝ぼけまなこ)に自らをいざなうことによって、当時の記憶を思い出しやすくなるはずです。よし、そうと決まれば話は早い!!
というわけで早速、寝床にもぐりこんで目をつぶってみたところ、メモ書きのことなど思い出す間もなく、気がつけば翌日の朝になっていたのでした。泣。
それにしても記憶というのは不思議なもので、頭のどこかにはあるはずなのに思い出せないこともあるし、そのときの気分の良し悪しによって、取り出すことのできる記憶の種類も量も異なってくる。
私たちの記憶を仮に、下の図のようなものとしてみましょう。
そのときどきの種々の記憶が一緒くたに積み重なって、一見すると無意味な情報の蓄積に思えるかもしれません。でも、各時点での記憶を後からどのようにつなぎ合わせるかによって、それまでの記憶の意味や色合いは大きく変わってきます。
たとえば、水色の部分の記憶がつなぎ合わさると、これまでの自分の人生は「さいあく」だったと感じられるでしょうし、逆に黄色の部分の記憶がつなぎ合わさると「しあわせ」だったと感じられることでしょう。先の気分状態依存効果にもとづくなら、気分が沈んでいるときは、貯蔵されている記憶のうち(上の図の)水色部分にしかアクセスできなくなっているのです。認知療法やナラティブセラピーといったカウンセリング技法では、このような記憶のバイアスを見つめ直す作業が重視されます。
「風邪をひけば人生観も変わる。人生観とはそんなものだ」とは劇作家チェーホフの言葉ですが、私たちの記憶はもちろん、考え方、感じ方など、すべては常にうつろっています。過去を振り返ると失敗ばかりの人生だった気がする、将来のことを考えてもまったく希望が持てない……そんなときにはちょっと立ち止まって、いまの自分がどんなポジションにいるのかを振り返ってみることが大切かもしれません。
文責:臨床心理士・名倉