おうばく通信
BUCきょうと機関誌『ばっくる』連載エッセイ
2010年4月29日 (木)
月刊きょうと/「巻くべき『ねじ』について」(2010年5月)
今回は利用者のねじまき鳥さんに、村上春樹の魅力について書いていただきました。
私のペンネーム「ねじまき鳥」は村上春樹の長編小説『ねじまき鳥クロニクル』からとっている。ねじまき鳥とは毎朝世界のねじを巻く鳥で、それをしないと世界がだんだん壊れておかしくなっていくのである。
この小説は3巻からなる長編で最初2巻発売されてすぐに読んだのだが、多分半年くらい経った頃だろうか、3巻目が発売された。その頃には筋をはっきり覚えていないので最初からまた読まなければならなかった。そのままになっていたが、去年入院していた時に時間があり余るほどあったのでやっと読むことが出来た。
私は村上春樹が好きで、いくつかの短編と『1Q84』を除いて小説はほとんど読んでいる。
基本的に村上春樹の小説は、ある種の欠落感と世界に対する違和感を抱えた主人公が何かを探し求めるという基本形を備えたものが多いと思う。最初にすごいと思ったのは3作目で最初の長編小説である『羊をめぐる冒険』だった。ここでは、探し求めたものが見付かったとたん、それはあらかじめ既に失われていたのだったということがわかる。
このように村上春樹の小説は必ずしもハッピーエンドで終わるとは限らない。ある種の哀しみが常につきまとう。
私は長い間村上春樹は『羊をめぐる冒険』を超える小説を書いていないと思っていた。その他が駄作という意味ではなく『羊をめぐる冒険』が飛び抜けているのだ。
『ねじまき鳥クロニクル』は3巻目の終わり方がひどく暴力的で殺伐としていて、そして結局何も解決しなかった。2巻まででよかったのではないか、という意見もあった。最近の村上春樹は「暴力」というものを非常に重要なテーマにしていると思う。
今現在、村上春樹の最高傑作と私が思うのは『海辺のカフカ』だ(『1Q84』はまだ読んでいない)。これは世界一タフな15歳のカフカという少年が家出をする話とねこと話せるナカタさんという記憶をなくしたおじいさんの話が交互に語られる。ここでも暴力の場面が出てくる。何匹ものねこが殺されるのだ。私はねこが好きなので非常に読むのが苦しかった。でも彼は言っていた「それは書かれなければならなかった」と。
この小説の終わり方は、いままでになくさわやかで、新しい旅立ちを予感させた。悲しいことがいくつか終わった後でだ。この小説が私の今の一番の村上春樹のお気に入りだ。
また、目立っていないようだが『海辺のカフカ』の後に発表されたもので『アフターダーク』という作品があるが、これが結構いい。この作品に出てくる姉妹の関係は壊れている。しかし、最後にささやかな希望が暗示されて終わる。ささやかであるためこの先どうなるかは依然闇の中であることに変わりはない。でもそのささやかな希望の描き方にぐっと来るものがあった。私のお勧めの作品である。
さて、「ねじまき鳥」にもどる。ねじまき鳥が巻く「ねじ」とは何だろうか?どこにあって、どういう構造をしているのだろうか?私はそれが知りたい。
私の好きな詩人の一人、谷川俊太郎の詩の中に確か「ほんとうのことが知りたい」というような言葉があったと思う。「ほんとうのこと」とは、科学的な意味ではなく、世俗的な意味でもなく、強いて言うならば宗教的な意味というのが一番近いかもしれない。
「ほんとうのこと」がわかれば巻くべき「ねじ」も分かるのかも知れない。ねじまき鳥である私は、今も欠落感と世界に対する違和感を抱えながら巻くべき「ねじ」探し続けている。