おうばく通信
BUCきょうと機関誌『ばっくる』連載エッセイ
2007年7月 1日 (日)
月刊きょうと/「知る」ということ、「知らない」ということ (2007年7月)
今回は利用者のとーるさんにエッセイを書いていただきました。
「知ること、理解すること」について考えさせられる一稿です。
「知っている」、「知らない」。
私たちはこの言葉をよく使います。だいたいの場合は「知識として知っている/知らない」の意味で用いられることが多いと思いますが、「理解する」という意味もあると思います。
しかし本当に理解するというのは実は大変なことで、中途半端な理解をして人を傷つけてしまったり、場の雰囲気を悪くしてしまうことも間々あると思います。
こんなエピソードがあります。
とある銀行に一人の目の不自由な女性の方が来られました。多分、白い杖を持ってたどたどしく歩いていたのでしょう、受付の人も他のお客さんも一目で分かりました。その女性の方が振り込みをしようと用紙をもらい、受付の人に言いました。
「代わりに書いて頂けませんか?」
みなさん、受付の人はどうしたと思いますか? 実はこう返事をしたそうです。
「あっ、手もお悪いんですか?」
ドキッとする話ですね。
受付の人に悪気は全くなく、むしろ目の不自由な女性を気遣おうとさえしていたのでしょうが、「目が不自由だと、どこに記入したらよいか分からなくて用紙が書けない」ということが理解できていなかったばかりに、結果としてその女性の方を傷つけてしまうような受け答えをしてしまった訳です。
「知らない」ということが「怖い」ということを自分の中で戒める話として、また相手の立場に立って思いやることの難しさを示す話として、いつも心に留めているので紹介させて頂きました。
「知らない」ことを「知る」ことは重要だと思いますが、全てを「知って」対応できるというのもこれまた難しいことです。
ですので、私はそういう場面に出くわした時は「知らないことは分からない。だから教えてあげたほうがよい」と考えて、なるべくそうできるように心がけています。
前述のエピソードの場合は受付の人に「この方は目が不自由なので、用紙のどこに書いたらよいのかが分からないんですよ」と一言話してあげれば、その場の雰囲気はこれ以上悪くはならないでしょうし、次にそういうことがあった場合は受付の人もきっと良い対応をしてくれるだろうと思うからです。
私の患っている病気(うつ病)は特に一般の方には「怖い」という印象を与えがちですが、それは詳しいことを「知らない」ことに由来しているのではないかと思います。
それを克服していくのと同時に家族や身の周りの人、職場の人に自分の病気について「知ってもらう」努力もしていけたらと思います。
もちろん私たちが「知る」努力も。どちらも大変なことですが、一歩ずつ少しずつでも自分なりに進められていけたらいいなと思っています。